シン資本主義のポイント

資本主義の発達により、モノ(製品)のみならず、コト(コンテンツ)までもが溢れかえる世界になり、資本主義も新たなステージに突入した。これをシン(新)資本主義ととりあえず呼んでみよう。

 

シン資本主義のポイントは、経済を支える人々の消費側、いわゆるデマンドサイドの考え方についてのパラダイム変換である。

 

1つ目は、消費者の限られた時間の奪い合いという構図で表すことができる。人々は、いくら物事を消費すると言っても、際限なく消費できるわけではない。最も大きな制約が、時間である。とりわけ「コト」を消費するにあたっては、一度に複数の消費をするのが難しい。10本の動画を同時に観ることができないのと一緒である。

 

サブスクリプションが中心になると、1つ1つ商品やサービスを売り切るスタイルではなく、いかに多くの時間を自社の提供サブスクリプションを消費してもらうかがポイントとなる。そのために、消費者の限られた時間を、あらゆるタイプのサービスが奪い合う。例えば、アウトドアか、インドアか、アウトドアであれば、旅行か、スポーツか、お祭りか、インドアであれば、動画鑑賞か、食事か、パーティーか。ありとあらゆる私たちの活動がターゲットとなる。

 

2つ目は、消費者の時間を自分達が提供するサービスの消費に使ってもらうように行動を誘導するということである。動画鑑賞がライフスタイルになったとすれば、それは動画提供会社の行動誘導が成功した証拠である。動画提供会社は、動画鑑賞に人々の行動の誘導と形成に成功した結果、競合であるスポーツとかパーティとか学びとかに勝利したことになる。このような行動誘導・行動形成を、文化の形成と言い換えることもできる。多くの人がスターバックスでコーヒーを飲むという習慣が形成されたことは、スターバックス文化が生み出されたとも解釈できる。

 

リスキリングとか、生涯学習といったような掛け声は、消費者の行動を「学び」に誘導することで、教育産業を潤そうという行動誘導、行動形成の試みである。行動誘導、行動形成に活用が進むと思われているのが、行動経済学やそこから生まれた「ナッジ」という手法である。行動経済学がもてはやされるのも、人々の消費行動の誘導・形成がシン資本主義の本質だからである。

 

 

 

 

 

モノからコトへシフトする資本主義経済

資本主義の仕組みを一言でいうと、生産と消費のサイクルを通して資本を増殖させる力である。モノから製品を生産してそれを人々に売る。その際に、生産を安く済ますことで利益を出す。人々はそれを買って消費する。消費してなくなったら再び買う。生産者は、安くモノを作るために安価な労働力を求めて活動範囲を広げるとともに、もっと多くの人々に買ってもらうために市場の範囲を広げようとする。これが、資本主義が拡大する原動力である。

 

モノの生産と消費のサイクルが高回転すればするほど資本の増殖スピードが増し、1つの国や地域でモノがあふれかえって消費が追い付かなくなり飽和したら、新たな市場と安価な労働者を求めて他国に進出する。昔はそれを植民地化というかたちで推し進め、現在は、自由化を推進することで対外投資して進出する。

 

世界の中でまだ所得が低い、モノが行き届いていない地域があれば、そこに資本が進出することで資本の増殖スピードが維持されるので、資本主義経済は拡大発展するわけだが、それも時間がたてば世界中にモノがあふれかえることになり、飽和してしまう。つまり、モノの生産と消費のサイクルを通した資本主義が行き詰まってしまう。

 

また、モノの生産と消費のサイクルが高速化すればするほど、モノの浪費が増え、ゴミが増え、地球環境を破壊することにつながる。つまり、人類の生存さえも脅かす。このように、どう考えてもモノの生産と消費のサイクルの高速化を通した資本主義の拡大は限界を迎えてしまうのが宿命だったのである。

 

そこで資本主義は次のステージに発展しつつある。それは、モノを作って消費するのではなく、コンテンツを作って消費するというサイクルを回していくことである。例えば、アニメ、映画、ドラマなどのメディアコンテンツを制作し、それを消費者は購入し、家庭で消費する、という具合である。

 

コトの生産と消費のサイクルの優れた点は、モノの生産と消費のサイクルとくらべると、物理的な地球資源の浪費や環境破壊につながる度合いがゼロではないにせよ、比較的低いということである。資本主義経済が、コトの生産と消費に大きくシフトするならば、むりやりモノを作って消費者の購買意欲を刺激してそれを購入させる努力が必要なくなるということを意味する。モノの生産と消費は資本の増殖のために行うのではなく、私たちが暮らしていくうえで必要最小限のサイクルで良いのである。いいモノをつくって人々がそれを長く大切に使っていくようになれば、環境負荷は大きく軽減される。

 

その代わり、資本やコトの生産と消費のサイクルを用いて増殖を志向していけばよい。誰かがアイデアを生み、それを誰かが買うというサイクルである。ただし、それは、世の中のコンテンツを際限なく増やしていくことにもつながる。コンテンツの量が少ない時代は、多くの人が新しいコンテンツをありがたく消費したであろうが、いずれ、モノのときと同じように、周りがコンテンツであふれかえることになる。例えば、テレビドラマが際限なく増えて、消費者はあまりに多くの選択肢から限られたものしか消費できなくなる。よって、コンテンツを売って利益を得ようとする企業は、いかに多忙な消費者から自社のコンテンツを消費してもらう時間を確保するかが勝負となる。

 

コンテンツが増えれば増えるほど、供給過剰となってコンテンツの単価が下がってくるので、だいたいは、定額料金をいただいてコンテンツを消費し放題というサブスク型に移行する。あるいはプレミアムに支払ってもらうフリーミアムのモデルに移行していく。

 

このような有様だから、世界中がモノで溢れかえるようになるのと同じく、世界中がコンテンツで溢れかえるようになるだろう。人類は際限なく豊かになっていくのである。

 

 

 

 

 

 

 

生中継に回帰する地上波テレビ番組

ネットやSNSの台頭で、地上波テレビの存在が危機に立たされている。だが、当方の見立てとしては、地上波テレビ放送は、かつての生放送中心の姿に原点回帰していくものと思われる。

 

もともと、テレビは生放送が中心であったが、それは録画や編集の技術が未熟であったためである。だが、録画や編集は当たり前のようにできるようになった現在、リアルタイムで視聴しなければならないわけではない番組のほとんどは、オンデマンドで見たい時に見ればよいわけでもあるから、ユーチューブなどのインターネットに移行していくことは避けられない。

 

もちろん、録画機で録画をして好きな時に見るというライフスタイルは以前からあるが、そんなことをしないでもオンデマンドで同じものが楽しめるのならば、録画するだけ余計な作業になる。

 

ということで、地上波放送の存在意義は、鮮度が命のリアルタイム性に他ならない。今、何が起こっているのか知りたい、速報を知りたい、というときはやはりテレビに分がある。よって、ニュース番組を中心とした生放送が、地上波テレビの今後の活路ということになるのである。

 

テレビ受信機は、現時点ですでにパソコンのモニターとなんら変わらない、それに地上波チューナー機能を付加しただけの代物なので、これはこれでよい。

 

なので、これからは、映像を楽しむためのモニタは同じものを利用するにしても、テレビドラマやバラエティーなど、録画・編集を経るコンテンツは、すべてネット経由でオンデマンドになるだろう。

 

それで、ニュースが知りたい、速報がしりたい、スクープが知りたいというときに、同じモニタを地上波チューナーに切り替えて、ニュースやワイドショー番組を地上波で見ることになるだろう。

 

つまり、リアルタイムでないといけない生放送は地上波テレビ局が担当し、オンデマンドでよいその他のコンテンツはネット経由での配信が最適な姿であろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コロナ禍で考える指数関数的(幾何級数的)資本主義社会からの脱却

私たちは、指数関数的な社会で暮らしている。これはどういうことかというと、成長が直線的ではなく、指数関数的に増えていくような社会にいるということである。

 

これは、いろいろな成長指標を見ればわかるだろう。テクノロジーの発達などもそうだ。ではなぜそんな社会なのかというと、資本主義の原理に、初めから指数関数が内在化されているからである。

 

それが端的に表れているのが、金利である。金利は、基本的に、複利で運用される。複利というのは、指数関数的にお金が増殖していくことだ。例えば年率7.2%の金利で運用すると、10年で金額は倍になるのである。お金自体が複利で指数関数的に増えていくことが前提となっているということは、それに追いつくかたちで経済が成長することも前提になっているのである。

 

資本主義のもっとも根本的な要素であるお金が、実体経済に対し、指数関数的に成長するようプレッシャーを与え続けてきているのである。そして実際、産業革命が起こって資本主義の経済が成立して以降、世界は指数関数的に成長してきたのである。

 

しかし、もうご存知の通り、だいぶん前から、実体経済のほうが、お金からの指数関数的成長へのプレッシャーに応えられなくなってきた。先進国ではモノや食べ物があふれかえり、それでも無理やり消費を刺激して買い替えを増やし、肥満を増やし、ごみを増やし、資源を浪費してきた。しかし、先進国から順番に、そのプレッシャーに応えられなくなった。

 

よって、お金のプレッシャーに実体経済が追い付かなくなったため、お金だけが独り歩きして指数関数的成長を持続させなければならなかった。その結果、実体を伴わないお金の自己増殖がバブルを引き起こしては崩壊するという現象を繰り返すようになってきたのである。

 

それもうまくいかなくなって、現在では、低金利になってしまった。もう、システムとして、指数関数的成長が実体経済でもお金面でも持続できなくなってきたのである。アベノミクスや黒田バズーカを使ったインフレターゲットをやっても、「笛吹けども踊らず」状態なのである。現代風にいえば、社会が「無理」と言っているのである。指数関数的成長は、地球環境も破壊するので、持続的発展、持続的成長とは親和性がないのである。

 

であるから、大事なのは、私たちの社会にとって、指数関数的成長が本当に必要なのかを考え直すことである。

 

コロナ禍でスローになった仕事や生活をきっかけに、指数関数的成長社会からの脱却を目指すのがよいのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

新型コロナと強制的働き方改革

本日の時点で、新型コロナ危機は、いまだ世界的に収束の見込みは立っていない。日本では、大都市圏を中心に緊急事態宣言が出され、基本的に在宅勤務が要請されている。

 

新型コロナ危機自体は、現在苦しい状況にあり、なんとか収束に向けて耐えなければならない。一方、別の見方をすれば、現在は、まさに、新型コロナが黒船となって、強制働き方改革が進められている状況であるといえる。

 

強制的働き方改革の結果、早朝の通勤ラッシュの混雑や満員電車が50%以上、削減されれば、多くの人にとって望ましい状態になるだろう。好き好んで満員電車に乗って毎朝通っている人はあまりいない。超満員電車は苦痛でしかない。

 

時間に縛られる生活から、時間を操る生活へ。もちろん、公共交通機関や店舗店員など、依然として時間に縛られる業種、職種はあるが、情報通信環境が整っていればどこでも作業ができるデスクワークや会議など、そうでない職業も確実に増えている。

 

そのような働き方改革のためのインフラは、もうすである程度整っている。できる人、できる会社から在宅勤務、フレキシブルワークに移行すれば、実現可能なことなのだが、護送船団方式の日本ではなかなかできなかった。であるから、意識改革が課題だったのだ。

 

いまはまだ、大都市圏で、可能な人から郊外の自宅で在宅勤務をしていくことで通勤地獄から解放されるといったようなレベルにとどまっているが、これが進化すれば、自然に恵まれた地方に移住して健康的な生活を送りながらテレワークという生活も夢ではないだろう。

 

新型コロナ危機でわかる世界の仕組み

新型コロナ危機によって、都市部の封鎖や外出自粛要請が世界各地で行われている。

 

その結果、ヒトやモノの動きが滞り、経済が悪化している。人々の生活も危機に陥っている。

 

その反面、空気は綺麗になり、ゴミは減り、資源の消費が抑えられ、地球環境にとってはよい影響も出ている。

 

つまり、人々やモノが忙しく動きまわることで、経済が活況し、生活水準が上がり、ゴミが増え、空気が汚れ、貴重な資源が削り取られ、消費される。けれども多くの人々の生活はそれでなければなりたたないわけである。

 

ヒト、モノと同様に、お金も同じ。お金が世界を動き回ることで経済が良くなるので、上記の不思議な現象は、お金の流れが支えているともいえる。

 

お金は、流れがよくなると全体が膨張して増加し、流れが滞ると 全体が収縮して減っていくという特徴もある。なぜならば、お金の価値は、実質的には人々の頭の中にある信用であり、信用創造という機能によって増えたり減ったりするからである。

 

だから、世界でお金の流れがよくなれば、平均的に人々のお金が増えるから、消費が増え、生活が楽になっていくのである。ただ、お金を流すために、資源を削り、モノを作り、それを売り、買い、消費し、ゴミとして排出し、地球環境を破壊するというサイクルも同時に回さねばならないのである。これらの活動にお金が介在しているからである。 

新型コロナウイルスの流行で働き方改革は加速するか

以前、以下のようなブログ記事を投稿した。

careerdesign.hatenablog.com

つまり、テレワークのような働き方をする土台はすでにできているので、あとは、働き方の意識改革が浸透すれば実現するというものである(もちろん、すべての職種に当てはまるわけではない)。

 

問題は、働き方の意識改革のほうがなかなか進まないということだったのだが、皮肉にも、現在世界を揺るがしている新型コロナウイルスの流行が、いわゆる「黒船」の役割を果たそうとしている。

 

こちらも皮肉なことかもしれないが、もともと「働き方改革」という言葉を生み出すきっかけをつくってD社が、先陣をきってテレワークを推進しようとしている。社員の中で新型コロナウイルス感染者が出た関係で、本社の5000人ほどの社員に対し、テレワークを実施すると報道されたのだ。

 

不要不急の外出や会合は控えるという政府の方針にしたがい、優れたIT環境が整っている企業に勤める社員については、不必要に満員電車に乗って対人接触の多い街中やおフィルにいく必要がない場合は、家で仕事をするべしという方向にかじ取りが進んでいるように思える。

 

D社は言わずと知れた大企業であり、時間と場所に制約されない働き方をするためのIT環境はすでに整っているだろう。しかも、非製造業で生産設備があるわけではないので、特定の場所にいかないと仕事ができないというわけではない。そのような企業が率先して働き方改革をすることが、日本を変えていくことになるのかもしれない。