著書のご案内

大学生のためのキャリアデザイン

卒業後の就職を控え、長い職業人生を歩んでいこうとする大学生必見の書。目先の就職活動をはじめ、成功する仕事術や長期的なキャリア戦略など、小手先のテクニックではない、キャリアの達人たちによる本質的なアドバイスが満載。「大学受験の延長で就職活動をするのはやめよう」「優れたキャリア戦略とは奇なるもの」「キラッと光る原石になれ」「仕事のできる人はここが違う!」など、どこから読んでもためになる本。

 


 

AI・ロボット+シェアリングエコノミー=新たな社会

AI・ロボットとシェアリングエコノミーは、どうも別々に議論されているようである。しかし、この2つを一緒に見れば、将来の新しい社会が具体的にイメージできる。

 

まず、よく聞く意見として、AI・ロボットは人々の仕事を奪うとして、恐怖感をあおるようなものがある。しかし、よく考えるとこれはおかしい。AI・ロボットが人間がやるべき仕事をやってくれるのであれば、私たちはどんどん楽になるはずではないか。

 

私たち人間が行ってる仕事の半分をAIやロボットがやってくれるならば、単純に考えて、いまの半分の仕事で同じ生活水準が保てるはずだ。しかし、そうならないのには理由がある。それは現在の社会経済システムの問題だ。

 

少なくなった仕事をみんなでシェアすればよいのに、なぜか少なくなった仕事の奪い合いになって、勝ち組と負け組の間で経済格差がどんどん開いてしまうというわけである。つまり、せっかく全体としての富が増えても、その分配がゼロサムゲームになってしまい、豊かな人と貧しい人というように2極化してしまうわけである。これは、現在のモノやコトの所有を基礎とする資本主義経済が理由である。

 

そこで登場するのがシェアリング・エコノミーである。これは人々がモノやコトを所有するのをやめ、共有財産として必要に応じてシェアしようという経済である。シェアリング・エコノミーが普及すれば、人々が何かを所有しようと躍起になり、いったん所有したらシェアしないで独り占めしようとするマインドセットを変革することになる。

 

AI・ロボットが人間が行う仕事をどんどんとやるようになる。そうして、社会の富の多くがAI・ロボットによって生み出される。人間は、そうして生み出された富を所有したいものが競うことで勝者と弱者を生み出すのではなく、共同所有にしてみんなで仲良くシェアするのである。

 

モノやコトをシェアするために、国民はいったん所有権を国に差し出し、国が共有財産として管理する。そして、必要に応じて国民が相互扶助の精神でシェアしあう社会を作っていくというわけだ。もし、国が豊かでなければ、忙しいのにそのうえ相互扶助なんてという文句が聞こえてくるかもしれないが、そもそもそんなに働かなくてもAI・ロボットの活躍で富がどんどん増えていく社会なのだから、シェアを基本とする相互扶助も抵抗なくできるはずである。財産の共有化を基本とするシェアリングエコノミーを進歩させるのがAI・ロボットなわけである。

 

科学優位の無目的世界

現在は、科学がもっとも信頼できる知のあり方としての安定的な地位が確立されている時代だといってよい。科学の信頼性は、宗教よりも、慣習よりも、何よりも上位にあるようにさえ思える。そのような時代というのは、どんな特徴を持っているのだろう。

 

それを一言でいうならば、無目的世界観ということがいえるだろう。つまり、宇宙も、世界も、社会も、無目的なのである。

 

例えば、私たちは地球が丸いと思っておりそれを疑わない。なぜ疑わないかというと、科学がそう教えているからである。そのように教える科学とは何かというと、それは、機械的な世界観である。世界は神がある目的をつくって創造したとか、なにか目的があって、そこに向かって進歩しているというような考え方を排除し、純粋に、世界はなんらかの機械的な法則性に従っているだけだと考えるのだ。

 

そのように考えるからこそ、科学は発展し、それが技術に応用され、私たちの豊かな暮らしにつながったといえるのである。

 

しかし、先ほど述べたように、それは、世界には目的などないという前提で成り立っている。その世界で生きている人間が作る社会も、科学が有意の時代では、目的がないものとして捉えられる。ただ、機械的にある原理にしたがって人間の集まりとしての社会が営まれていると考えるのである。社会における人間は、あたかも、モノの世界における原子とか量子のようなものである。原子とか分子が集まって物理的世界ができているように、人間があつまって社会ができている。どちらも、目的はなく、機械的な法則で動いている。

 

 

そのような世界、社会、時代になってしまったからこそ、「神は死んだ」というようなニーチェの言葉が深い意味を持つのである。神がいるのであれば、神の意志が人々がこの世界を理解し、生きていくうえでの指針になる。つまり、生きる意味を見出せる。しかし、神がいない、無目的の世界では、そのようなガイドがなく、自分は何のために生まれてきたのか、何を目的に生きているのかという問いに意味がなくなってしまうのである。つまり、生きる目的とか、生きる意味を見失ってしまう世界に生きているのである。

 

極論として、各個人がただ動物のように欲望を追求していけば、市場メカニズムを介して社会としてまとまりがでてくる、みたいな話になってしまう。経済学も、無目的世界観の前提に立ち、一定の行動原理でうごく個々の人間の集まりとして市場や社会をとらえようとしがちであるからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ポストモダンにおける時間

先日の投稿で、モダンが、新しいものが次々と現れ、社会全体が進歩していくような時代だと説明した。これは、進歩に向かう絶対的な時間軸があって、直線的に物事が進歩していくような時代感覚である。

 

それに対して、ポストモダンでは、成長が止まり、過去のものをいろいろとつなぎ合わせるような活動が増えていることを指摘したが、これは、時間が絶対的・直線的ではなくなり、相対的なものに変化していることも意味している。

 

例えば、今の時代の映像をみて、そこに若いアイドルが映っていたとしても、実はそれは30年前の姿であったりする。つまり、懐かしの映像である。しかし、IT技術バーチャルリアリティの技術も進んで、30年前のアイドルがあたかもリアルタイムに存在するかのように眼前に姿を現すことになる。つまり、いまとか昔とかといった時間間隔があまり関係なくなっているのである。良いものは使いまわすし、時間に関係なく、組み合わせることで何か有益なことがあるのならばためらわずそうするのである。

 

モダンの時代は、絶対的な時間に製造や人間がコントロールされてきた。朝決まった時間にきまった職場に通勤し、夕方決まった時間に職場を出る。しかし、ポストモダンの時代では、時間にコントロールされず、自分の都合のよい時に働けばよい。生産性が最も高い時に働くとか、育児や介護など自分が必要とされているときにそれに従事できたりする。モダンの時代では、テレビでは番組表が君臨しており、観たいテレビは決まった時間にしか放送されないから、番組表に娯楽生活がコントロールされていた。しかし、ポストモダンの時代は基本オンデマンドだから、観たい時にいつでも観れる。

 

また、近年、グローバル化IT技術の進展で、地球上のあらゆる人々と仕事をしたり交流するようになっている。国境を跨いで他国の人といっしょに仕事をするときに、ミーティングの必要があるとしよう。しかし、それは、こちらが朝でむこうが夜だったりする。つまり、ポストモダンの時代では、時間は絶対的ではなく、私にとっての朝の8時は、相手にとっての朝の8時だとは限らない。地球の裏側にいたら、夜の8時だ。このように、時間も相対化していくのである。

 

 

 

 

 

 

 

モダンとポストモダン

現代の世界は、モダン(近代)から、ポストモダンに移り変わろうとしていると言われる。どういうことだろうか。

 

モダンの時代では、新しいものがいろいろと生まれ、社会が成長し、進歩していくように感じる。日本でいったら、明治から大正、昭和、そして戦後しばらくはモダンの時代であっただろう。

 

ポストモダンの時代とは、モダンのような成長や移り変わりがだんだんと減速し、やがて限界に達し、新しいものが生まれなくなっていく時代である。その代わり、モダンの時代の産物が蓄積されてきているので、蓄積された産物をパッチワークのようにつなぎあわせて再利用を繰り返すような活動が増えてくる。これは、現在あるものを最大限に活用することで資源の浪費や破壊を防ごうとするサステナビリティの発想とも通じるものである。

 

日本の大衆音楽でいれば、演歌、歌謡曲、ロック、ニューミュージック、J-Popダンスといったように次々と新たなジャンルが生まれ、大衆音楽がどんどん進歩しているように見えたモダンの時代は終わり、ポストモダンに突入した現在では、過去のジャンルと類似したパターンの再利用を繰り返しているような感じである。したがって、数十年前のポップス音楽と現在のポップス音楽では、演歌とニューミュージックを比べるかのようなものすごい違いがあるわけではない。

 

映像にしても、過去からの蓄積が進み、かつそれらへのアクセスが容易になっているので、オンデマンドでいつの時代であるかに関わらずさまざまな映像を利用するようになっている。リアルタイムの映像となつかしの映像がパッチワークのように組み合わされて番組が作られたりするのである。

 

基本的に、先進国は、モダンの時代のような成長はとまり、経済社会がポストモダンに移行しているといえよう。それに対し、発展途上国については、まだまだ物質的にもインフラ的にも成長の余地があるので、モダンとしての時代モードであるといえよう。

 

 

 

 

コンビニと物流センターが支える日本の未来

私の住んでいるところでは、大きなメーカーの工場が撤退し、そのあとに、巨大な物流センターが建設されているケースがいくつかある。

 

また、コンビニについても新店舗がいくつか開店しているが、概して大型店化している。

 

この2つの傾向は、コンビニと物流センターが将来の日本を支えることを示唆している。とりわけ、この2つが必要なのは、都市部でなく、地方である。

 

ご存知のとおり、地方では、車でいけるところに大型のショッピングモールなどがつくられ、その反面、街にあった小さな商店ががさびれてシャッター街と化してきた。

 

しかし、高齢化がさらに進むと、高齢者が車を運転するのは危険であったり、車を運転できなくなったりする。そうなると、昔のように車でショッピングモールに出かけるとうこともできなくなる。しかし、昔あったような、歩いて行ける距離にある商店街はすでに復活不可能な状態である。

 

そのような世帯を救うのは、まずは、ネット販売と宅配である。いまや、毎日の食材でさえも、ネット通販で配送が可能である。ネット販売と宅配がこれまで以上に重要となってくるならば、物流センターも重要なわけである。

 

それから、むかしの八百屋や肉屋、魚屋、雑貨屋を合体したような小型店舗としての役割を期待されているんがコンビニなのだ。コンビニが大型化して食料品などを充実させているのは、そのような未来をにらんでのことだと推察する。高齢者が多いところでも歩いていけるところに必ずコンビニがあって、そこにいけば、昔の八百屋や雑貨屋だけでなく、銀行や郵便局のような用事も済ませられるとなれば、鬼に金棒である。

 

このように、日本の人口がまだ若かったころは、原料を輸入して若者が低賃金で工場で働き、製品を輸出することでお金を稼ぎ、それを使うかたちで生活を成り立たせてきた。これから、経済が成熟し、少子高齢化が進む日本では、海外で作ったものを安く輸入し、物流網を充実させて家まで届けることで生活を維持することがポイントとなってくるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

コンビニのイノベーション・第二幕

コンビニエンスストアが世の中に登場して以来、コンビニ店舗の数は増えつづけ、もはやコンビニが無ければ社会が成り立たないくらいの存在感を確立した。

 

コンビニ店舗は無限に増え続けるわけにはいかない。なぜならば、人口が限られているからだ。日本の人口は減少しているわけだから、無理に店舗数の拡大を続けることは明らかに人口動態と矛盾する。

 

これまで、コンビニはセブンイレブンに牽引される形で進化を続けてきた。20年前のコンビニと今のコンビニを比べてみれば、その変容ぶりに驚くことであろう。今のコンビニには、ATMがあり、プライベートブランド商品があり、カフェがある。フライドポテトやフランクフルトがあり、近所のスーパーよりも安い商品もある。

 

そして、進化し続けることを止めないコンビニは、ついにイノベーションの第二幕を迎えることになった。その内容を解説しよう。

 

発祥当時からのコンビニの顧客のイメージは、都会に住むどちらかというと夜型の若者である。都会で忙しい生活をしている若者が便利さを求めてコンビニに駆け込んだり、たむろしたりするというイメージだ。

 

しかし、今、コンビニが担おうとしているのは、都会への若者流出や少子高齢化でダメージを受け、過疎化が進んだ地方社会である。

 

むかしは、地方においても、歩いていけるようなところに商店街があった。そこには、八百屋、肉屋、魚屋、金物屋、雑貨屋、本屋などがひしめき、商店街内で必要な買い物を済ますことができた。ところが、モータリゼーションが進み、郊外のロードサイドに大型のスーパーやショッピングモールが建設されるようになり、多くの人々が車にのってイオンやヨーカドーなどに買い物に行くようになった。その結果、地方の商店街はシャッター街と化し、八百屋も肉屋も雑貨屋も廃業してしまった。

 

ところが、である。高齢化がますます進むならば、高齢者が車を運転して郊外のショッピングセンターに行くことが困難になってくる。望むらくは、昔のように歩いていける商店街の復活なのである。しかし、昔のような商店街が復活することは考えにくい。

 

そこで、コンビニの出番なのである。それも、従来型の、都会の若者が顧客というイメージのコンビニではなく、地方の中高年の人たちのためのコンビニなのである。そのようなコンビニは、まさに、昔の八百屋や肉屋、魚屋、雑貨屋が1店舗に収まったようなお店なのである。

 

実際、セブンイレブンをはじめとするコンビニが、最新の店舗を大型化し、休憩スペースや生鮮食品などのスペースを増やしているのもその理由だと思われるのである。

 

都会の若者が夜におでんとかカップ麺を買いに行くようなコンビニではなく、都会のビジネスパーソンがランチの弁当を買いに行くようなコンビニではなく、地方のおじちゃん、おばちゃんが今晩のご飯の食材をちょっと買いにいくようなコンビニなのである。