著書のご案内

大学生のためのキャリアデザイン

卒業後の就職を控え、長い職業人生を歩んでいこうとする大学生必見の書。目先の就職活動をはじめ、成功する仕事術や長期的なキャリア戦略など、小手先のテクニックではない、キャリアの達人たちによる本質的なアドバイスが満載。「大学受験の延長で就職活動をするのはやめよう」「優れたキャリア戦略とは奇なるもの」「キラッと光る原石になれ」「仕事のできる人はここが違う!」など、どこから読んでもためになる本。

 


 

旧いキャリアモデルを完璧に打破しよう

いまや、ほとんどの人が、そんなものは時代遅れと思っているのにも関わらず、いまだにこの日本を支配し、人々の深層心理にしみ込んで色あせないキャリアモデルがある。

 

それは、「しっかりと勉強して良い大学に入り、そして安定した大企業の社員になって幸せな人生を送る」というものだ。ほとんどの人はこの言葉をみて、そんなものは古いと一刀両断するだろうが、ところがどっこい、実際の若者の行動などを見ているとそうではない。とくに、親の世代がこの考えに縛られてしまっていて、子供の世代もいやおうなく影響を受けているのではないだろうか。

 

「しっかりと勉強して良い大学に入る」までは良いし、今も生きている。しかし、その後がいけない。では、これからの日本に必要な、もっとも「格好良い」「イケてる」キャリアモデルはなにか。

 

それは、「しっかりと勉強して良い大学に入り、大学でさらにしっかりと勉強をして、その後は自分で新しい事業を起こしたり、新しい事業を起こした若い会社に入って(あるいはベンチャーキャピタルなどの外部から)その会社を大きく伸ばしていく」というものだ。

 

もちろん、昔から、似たようなキャリアモデルとして「青年実業家」というモデルがある。しかし、これはどちらかというと一般人には特別な人種にように捉えられ、あまりポジティブなイメージがない。なんとなく胡散臭い、どこかのお坊ちゃん、単なる成金、などのネガティブイメージが伴いがちである。

 

そうではなく、一般人のなかでも能力が高い人が目指すべき、もっとも格好よいキャリアモデルとして、事業を創っていく仕事、イノベーションを起こす仕事に携わり、世の中で活躍する、というキャリアモデルがないといけないのだ。優秀な大学を出たもっとも能力の高い人々が、出来上がったルーチン業務で自らのポテンシャルを浪費する大企業に入ってはいけないのである。

 

もっとも優秀な人たちが、大学や大学院を卒業後、次々と新しい事業を立ち上げ、あるいはその流れに参加して、日本から世界に向けて新しいビジネスが沸き起こっていく。それによって、日本の経済も活性化する。もっともエキサイティングな仕事、もっともエキサイティングなキャリア。幸福な人生。残念ながらそのような能力や実力がない人は、「仕方なく」大企業に入ってルーチン業務に甘んじる。

 

別に、大企業に入って働くことが悪いことであるとは言っていない。もっとも優秀な人が大企業に入るのは、日本全体にとってみればイノベーションに必要な人的資源の浪費だと言っているだけである。

 

大企業を批判しているわけでもない。そもそも、大企業というのは、できあがった業務を通じて多くの人たちに製品やサービスを安定的に供給することが一番大切なので、平凡でも従順にルーチン業務をこなせる人が大量に必要であって、逆に、尖った人とかあまりにもクリエイティブな人とかがいては、和が乱れるので困るのだ。

 

平凡な人しか入社せず、平凡な仕事しかできない大企業が勢いを失って衰退し、やがては消え去っていくことは問題ではない。たんなる自然法則と考えればよい。その代りに、優秀な人々が新たな事業を次々と起こし、それらの会社がどんどん成長して、やがて次世代の大企業になっていく。ただし、大企業になってしまったら、優秀な人材からそっぽを向かれ、平凡な人しか採用できず、やがて衰退していくことは避けられない。

 

なにはともあれ、新しい事業を起こしたり、新しい製品を世に出したり、イノベーションを起こすのは、優秀な人でないといけないのだ。結果的にそのような人になれないとしても、子供のころから、そういう人々に憧れて、そういう人々になりたいという夢を持ち、そういう人々になれるよう一所懸命勉強することが、将来の日本の経済の発展につながるのだ。

 

 

 

 

 

 

商品としてのキャリア・事例編

前回、「商品としてのキャリア」という記事を書いた。そして、ただの思い付きで、例として、「嵐が・・・」というようなことを書いた。

 

そうしたら、驚いたことに、その翌日に、嵐の活動停止のニュースが日本全国を駆け巡った。

 

単なる偶然とはいえ、あまりにもタイミングが良すぎる展開だ。つまり、嵐の活動停止というのは、「商品としてのキャリア」の1つのケーススタディ(事例研究)だといえるのである。

 

嵐は、明らかに少年のころからすでに、「一般人」から「商品」に転化した。日本でも最大級の資本の自己増殖の一部となり、膨大な利潤を生み出し続けてきた。そして、「商品」としての人生を、20年近くも過ごしてきたのだ。

 

商品というのは、貨幣がさらなる貨幣を生むという自己増殖の循環プロセスの一部を担うものだから、徹底的な品質管理が必要である。傷がついてはいけない。本人も、商品としての自覚を持ち、徹底した品質管理をする義務がある。その点、大手芸能プロダクションは、品質管理が徹底しており、品質管理が徹底しているからこそ、商品としての信頼性が高く、安定的に利潤を生み出せるわけである。

 

しかし、1人の人間として、商品のままで人生の大半を送るということでいいのかということは言えるわけである。

 

そして、多くの芸能人は、そんな疑問を挟むまえに、「商品」としての価値が下がり、自然と、「人」に戻っていくのである。つまり、商品でいたくても、資本の自己増殖に貢献できなくなってしまえばもはや商品ではいられないというわけだ。

 

プロスポーツ選手なんかもそうで、商品としての賞味期間は相対的に短いのである。引退後、コメンテーターなど別の商品に再転化するケースもままあるが。

 

しかし、嵐の場合は多少老朽化しても商品価値は依然として健在であった。それに対してあるメンバーは、自分が商品でありつづけることにノーを表明したわけだ。私はそれはそれで本人にとっては大事なことでよいと思うが、嵐という商品を自己増殖の手段として最大限に活用してきた資本の論理からすると、ちょっと待ったということになるのもしれない。

 

商品としてのキャリア

キャリアデザインの1つの考え方が、自分自身が商品となるということだ。

 

よくある傾向として、それまでは一般的な「人」であった存在が、あるとき、なんらかのきっかけで、その人の存在やら言説やら著作やらが、他者にとっての使用価値の高い「商品」と転化し、自己増殖をつづける資本の運動にうまく取り込まれることによって大きく飛躍するというものだ。

 

「人」から「商品」へと転化するというところがポイントだ。商品に転化した瞬間、それは商品資本となり、貨幣ー商品ー貨幣を通じて増殖する循環運動の1部となるのである。

 

もちろん、その商品が、生身の肉体1つでしかないのなら、稼働率的に限界があるが、いまの世の中、いくらでもコピーして再生産できる。昔からあるのは著書だし、いまでいえばユーチューバーなどは、何万回も再生可能である。

 

貨幣資本から見れば、その商品に貨幣を投じて貨幣を商品に転化し、それを価格を上乗せして売却することで貨幣を増やすという運動が可能になるので、商品としての価値が高まれば高まるほど、そのような資本が押し寄せてきて、大きな循環運動の一部として取り込まれる。

 

いったん取り込まれたら、その商品が飽きられるまで半ば自動的に、あるいは商品としての数多くの自分の分身たちが一人歩きするかたちで、この資本主義の社会を泳ぎ回ることになるのである。

 

自分を商品化することで、収入も増え、知名度も高まるといったキャリア上のメリットもあるが、デメリットも認識はしておくべきであろう。例えば、自分の存在が商品と転化した場合、その商品に対する他者からの好き嫌い、とりわけ批判や苦情にも直面せざるをえない。ある商品が万人から絶賛されるということはありえない。

 

たんなる「人」としての存在の場合は、他者が自分に関心を持つことはないのでよいが、商品となったらそうはいかない。「あたし嵐の●●は好きじゃない」みたいな会話を、そこらへんの一般人が平気で街中のカフェとかでかわすわけである。

 

あと、いったん資本の自己増殖運動に取り込まれたら、自分ではその動きをコントロールできなくなる可能性もあるということだ。先ほど述べたように、自分の著作とか、言説とか、芸能人とかであれば顔写真やフォトなどの分身が独り歩きしてこの世の中にどんどんと拡がっていくわけである。

 

一発屋と呼ばれるタレントのように、一時期は自分がコントロールできないままに膨大のお金が懐に流れ込み、金遣いが荒くなり、その後、急に飽きられたり不祥事に巻き込まれたりして身銭がなくなるというケースも考えられるわけである。

 

時間と場所に制約されない自由な働き方、自分が得意とする仕事ができる環境が整ってきた

多くの人にとって、時間と場所に制約されない働き方、そして、苦手なことではなく得意な仕事に特化することができる技術的な環境が整ってきた。あとは、人々のメンタリティが変わるだけだ。

 

工業化社会ではそうはいかなかった。工業化社会は、モノづくりを中心とするモノ中心の世界である。モノは特定の場所で作られるので、人々が仕事をする際、そこに張り付いていなければならなかった。だから、多くの人が9時~6時のような勤務形態になり、通勤ラッシュが起こる。また、分単位の時間管理が仕事に求められる。

 

また、仕事環境は、主に物理的スペースにおいてモノを中心に構築された。工場、機械設備、オフィス、机、会議室、紙とペンなどを整え、仕事をするわけだ。だから、仕事をするためにはどうしても、特定の場所にいかなければならなかった。事務作業1つとっても、わざわざ通勤してオフィスにいって、机のうえにある紙とペンで作業するほかなかったのである。

 

つまり、工業化社会の働き方は、時間と場所の制約をうけたかたちでしか働くことができなかった。だから、遠距離であっても毎朝通勤列車などに乗って会社を行き来し、時間通り仕事をし、疲れ果てて家に帰るというようなことが普通であったのである。

 

しかし、情報化社会となり、情報技術が発達し、技術環境が大きく変わった。私たちの仕事はもはや場所や時間に制約されることが格段に少なくなった。仕事環境は、物理的なモノではなく、主にサイバースペースで情報技術をつかって構築することが可能になった。事務作業は、ネットにつながれた端末とクラウドがあればいつでもどこでもできるようになった。会議もスカイプなどを利用して遠隔でできるようになった。

 

そうなると、毎朝分単位で活動し、時間通りに家をでて会社に向かい、都市部では満員電車に苦しみ、地方でも交通渋滞に苦しむ理由もなくなってきた。多くの人にとって、自分がやるべき仕事が、8時間ずっと特定の場所にいなければならないわけではなくなってきた。また、好きな時間に仕事をやれるようにもなった。たとえば大事な家事、育児、介護などがあれば、その時間を外して作業することもできるようになった。

 

いったんまとめよう。つまり、過去の時代においては、仕事環境は物理的空間の中で構築するしかなかった。いつ、どこで、どのような仕事・作業が必要なのかが設計されるため、仕事・作業の時間と場所が固定化され計画される。そこに、その仕事・作業をする人が張り付くことで業務が動く。よって、働く人は必然的に時間と場所の制約を受けることになった。しかし、情報技術の発展により、仕事環境の多くがバーチャルなサイバースペース上で構築されることが可能になった。

 

サイバースペースは仮想空間であって実空間ではないので、どのような仕事・作業が必要かが特定されれば、物理的空間の制約は受けない。物理的にどこにいても必要な仕事をもっともふさわしい人が実行できる。そして、情報技術の発達により、大容量の情報を多くの人で共有することが可能になった。それは、どの作業・仕事がどう動いているのか、誰がいま何をやっているのかをはじめ、業務や組織の状況、マーケティングや財務状況などあらゆる情報のアクセス可能性と透明性が可能になり、働いている人がそれをモニタリングして、自分がもっとも貢献できる部分、自分の長所をもっとも生かせる部分を選んでその仕事をすることができる。例えば、いま〇〇氏がこの部分の作業をしている。ならば自分はこちらの部分をやることでもっともうまくいくはずだ、と判断して作業を選んで実行する。他の人との仕事の調整もしやすく、同じようなスペックをもった人材がスペースを超えて仕事を譲り合ったりシェアしたりすることもできるため、働く時間の柔軟性も増すことになる。つまり、自分が家庭の仕事なので手が離せないときにほかの人が代わりにやるということがやりやすくなるわけだ。そのかわり、家事から解放された夜間に仕事をやったりすることもできるようになる。

 

であるから、30年~40年前とくらべて、自分のやっている仕事が、本当に早朝満員電車で特定の場所まで勤務してさらに帰宅の通勤ラッシュにもまれるようなかたちでしかできない仕事なのかを自問してみると、その度合いは格段に減少しているに違いない。場合によっては、決まった時間に特定の場所でしかできないなど、どうしても物理的・時間的な制約のある作業だけを抜き出すと、それは週2日で済むような感じとなり、その他の自由にできる仕事だけを集めて分離すれば、週5日はいつでもどこでも仕事ができる体制になるだろう。仕事の時間が自由になれば余暇の時間も自由になる。したがって、土日だけ娯楽施設が超満員になり、平日はガラガラといった不効率なリソース運営も解消されるだろう。

 

ただし、次のような懸念もあるかと思う。つまり、自分の仕事が場所と時間に制約されないならば、そもそも人間は怠惰だからダレてしまって逆に仕事がうまく進まない、生産性が下がるのではないか。つまり、人間、誰かに監視されていなければ当然サボるだろうと。よって、ある意味奴隷のように行動を縛らないと生産性は維持できないのではないかと。しかし、働かざる者食うべからずではないが、自分がいつ何をして、その結果どのような貢献をしたのかはどは情報技術の発達ですべて記録できるようになり、かつ人々のあいだで共有もできるようになるので、それが自己規律につながる。これだけ貢献したのだから、これだけの報酬をいただくというのについては会社が決めるのではなく、マーケット(相場)を見ながら自分で決めればよい。マーケット的に十分な原資があれば言い値で報酬を受け取れる。原資が不足してくれば皆で負担をシェアすることで妥当な報酬水準を決定する。つまり、自分の仕事上の貢献度と、それに対する経済的、あるいはその他の見返りとのバランスの透明性も増すということだ。例えば、あまり金銭的なニーズがなければ仕事を通じてそこそこの貢献度をすればよいし、金銭的ニーズが大きいのならば、しばらくは仕事を優先して貢献度を増やすといったように、仕事の時間のみならず仕事の量や貢献度を選ぶ自由もついてくるのだ。

 

バーチャル空間を中心とする技術環境を構築する情報技術は、何も現在で進歩がストップしてしまったわけではない。これからもさらにスピードが増す形で発展するに違いない。ということは、これまで以上に、自由な働き方、得意なことに特化する働き方が可能な技術環境が発展することは間違いがない。

 

これは素晴らしいことではないか。あとは、働き方の意識改革、すなわち働き方改革が実現だけでよいのだ。 

 

AI・ロボット+シェアリングエコノミー=新たな社会

AI・ロボットとシェアリングエコノミーは、どうも別々に議論されているようである。しかし、この2つを一緒に見れば、将来の新しい社会が具体的にイメージできる。

 

まず、よく聞く意見として、AI・ロボットは人々の仕事を奪うとして、恐怖感をあおるようなものがある。しかし、よく考えるとこれはおかしい。AI・ロボットが人間がやるべき仕事をやってくれるのであれば、私たちはどんどん楽になるはずではないか。

 

私たち人間が行ってる仕事の半分をAIやロボットがやってくれるならば、単純に考えて、いまの半分の仕事で同じ生活水準が保てるはずだ。しかし、そうならないのには理由がある。それは現在の社会経済システムの問題だ。

 

少なくなった仕事をみんなでシェアすればよいのに、なぜか少なくなった仕事の奪い合いになって、勝ち組と負け組の間で経済格差がどんどん開いてしまうというわけである。つまり、せっかく全体としての富が増えても、その分配がゼロサムゲームになってしまい、豊かな人と貧しい人というように2極化してしまうわけである。これは、現在のモノやコトの所有を基礎とする資本主義経済が理由である。

 

そこで登場するのがシェアリング・エコノミーである。これは人々がモノやコトを所有するのをやめ、共有財産として必要に応じてシェアしようという経済である。シェアリング・エコノミーが普及すれば、人々が何かを所有しようと躍起になり、いったん所有したらシェアしないで独り占めしようとするマインドセットを変革することになる。

 

AI・ロボットが人間が行う仕事をどんどんとやるようになる。そうして、社会の富の多くがAI・ロボットによって生み出される。人間は、そうして生み出された富を所有したいものが競うことで勝者と弱者を生み出すのではなく、共同所有にしてみんなで仲良くシェアするのである。

 

モノやコトをシェアするために、国民はいったん所有権を国に差し出し、国が共有財産として管理する。そして、必要に応じて国民が相互扶助の精神でシェアしあう社会を作っていくというわけだ。もし、国が豊かでなければ、忙しいのにそのうえ相互扶助なんてという文句が聞こえてくるかもしれないが、そもそもそんなに働かなくてもAI・ロボットの活躍で富がどんどん増えていく社会なのだから、シェアを基本とする相互扶助も抵抗なくできるはずである。財産の共有化を基本とするシェアリングエコノミーを進歩させるのがAI・ロボットなわけである。

 

科学優位の無目的世界

現在は、科学がもっとも信頼できる知のあり方としての安定的な地位が確立されている時代だといってよい。科学の信頼性は、宗教よりも、慣習よりも、何よりも上位にあるようにさえ思える。そのような時代というのは、どんな特徴を持っているのだろう。

 

それを一言でいうならば、無目的世界観ということがいえるだろう。つまり、宇宙も、世界も、社会も、無目的なのである。

 

例えば、私たちは地球が丸いと思っておりそれを疑わない。なぜ疑わないかというと、科学がそう教えているからである。そのように教える科学とは何かというと、それは、機械的な世界観である。世界は神がある目的をつくって創造したとか、なにか目的があって、そこに向かって進歩しているというような考え方を排除し、純粋に、世界はなんらかの機械的な法則性に従っているだけだと考えるのだ。

 

そのように考えるからこそ、科学は発展し、それが技術に応用され、私たちの豊かな暮らしにつながったといえるのである。

 

しかし、先ほど述べたように、それは、世界には目的などないという前提で成り立っている。その世界で生きている人間が作る社会も、科学が有意の時代では、目的がないものとして捉えられる。ただ、機械的にある原理にしたがって人間の集まりとしての社会が営まれていると考えるのである。社会における人間は、あたかも、モノの世界における原子とか量子のようなものである。原子とか分子が集まって物理的世界ができているように、人間があつまって社会ができている。どちらも、目的はなく、機械的な法則で動いている。

 

 

そのような世界、社会、時代になってしまったからこそ、「神は死んだ」というようなニーチェの言葉が深い意味を持つのである。神がいるのであれば、神の意志が人々がこの世界を理解し、生きていくうえでの指針になる。つまり、生きる意味を見出せる。しかし、神がいない、無目的の世界では、そのようなガイドがなく、自分は何のために生まれてきたのか、何を目的に生きているのかという問いに意味がなくなってしまうのである。つまり、生きる目的とか、生きる意味を見失ってしまう世界に生きているのである。

 

極論として、各個人がただ動物のように欲望を追求していけば、市場メカニズムを介して社会としてまとまりがでてくる、みたいな話になってしまう。経済学も、無目的世界観の前提に立ち、一定の行動原理でうごく個々の人間の集まりとして市場や社会をとらえようとしがちであるからである。