時間に縛られるということの正体2
以前、人間は、とくに現代に入ってからは、自分たちが編み出した「時間」というコンセプトによって、自らの行動をコントロールされているということを書いた。
繰り返すと、時間というのは、この世界に実在するものではなく、あくまで人間が考えだしたコンセプトだということだ。
その証拠に、人間は、時間を知覚するための感覚器官を持っていない。つまり、時間は五感(知覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)で直接感じとることができない。
だから、時間は、空間の知識を用いてしか表現できないのである。例えば、時間が「長かったり」「短かったり」するというのは、距離という空間知識を使って、時間というものを作り上げている証左である。
過去、未来、現在というのも、通常は、直線のような空間的知識を使って表現する。過去や未来「遠く感じる」のも、空間知識をつかって時間という「架空の概念」をとらえようとしているにすぎない。
でも、これらはあくまで現代という時代が作り上げた「アイデア」にすぎないということは言うまでもない。
世界はどのようにして作られたのか2
私たちが世界、宇宙について、真実だと思っていることのほとんどは、人間につくりだしたものにすぎないことを話してきた。
物理学とかの自然科学が対象とする、宇宙とか世界の分野でさえ、そうなのだが、経済学などが対象とする「社会」にいたっては、問題はもっと深刻だといえる。
つまり、私たちが住んでいる「社会」は、経済学などの社会科学によって「つくられた」ものであるのみならず、私たちの生活とか人生が、その社会の1部としてコントロールされているということだからだ。
例えば、経済学で有名な、「神の見えざる手」について考えてみよう。
この考え方によれば、市場の参加者(人間とか企業)が、自分の自己利益を最大化するように、かつ合理的に行動すると、「神の見えざる手」によって、富の分配などが最適になる。つまり、みながハッピーになる、というような論理展開をする。
このような考え方が基礎となって経済学が発展し、それが政策などにも影響を与えているわけだが、上記の「神の見えざる手」の話をきいて、「だから何なのだ」と思わないだろうjか。
あれは、あくまで仮定の話じゃないか。つまり「市場の参加者(人間とか企業)が、自分の自己利益を最大化するように、かつ合理的に行動すると」というのは仮定であって真実ではない。
けれども、それを出発点にして経済学が組み立てられ、それによって経済社会が説明、解釈され、かつ、経済問題などの処方箋が導き出される。しかも、このような考え方が学校で教えられ、人々の間に普及していく。
そうなると、単なる「仮定」が、仮定ではなくなって、多くの人にとって「前提」もしくは「真実」となってしまう。
なにが真実かというと、「人間は自己利益を最大化するべく合理的に行動する」ということがである。そして、それが真実であり、前提であるならば、私たちは、そのように行動するのが生得的であり、当たり前であるかのように「錯覚」してしまう。
皆がそのように行動して、「結果的に」経済学が予測するように社会が動いているとしたら、それには何の意味があるのだろうか。
確かに社会は経済学が考えるように動いているのかもしれないけれども、それは単に、経済学によって人々や社会がコントロールされているに過ぎないんのではないだろうか。
決定論的世界はすでに覆されている2
前回のエントリーで、自然科学の発達で人間が構築してきた決定論的世界はすでに覆されていることを指摘した。人間のさらなる想像力によって、決定論的世界は破壊され、新しい世界が構築されている。
つまり、原理的に、将来は予測不能なのである。もちろん、前回例に出したような天体の動きは、「しばらくは」予測可能だが、長期的には予測不能である。
では、この世界の将来は「原理的に」予測不能である理由を説明しよう。
まず、ニュートン的な力学だと、基本となるのは線形数学で、ある時点の物体の位置と運動状態がわかれば、方程式を解くことによって特定の時間における物体の位置が特定できる。これが決定論的世界の根拠である。
しかし、非線形数学だと、微分方程式を解いても、物体の初期値がほんのちょっと異なるだけで、全く違うことが起こってしまうことが「数学的に」わかってきた。
そんなことをいったって、物体の位置は原理的には正確に把握できるはずなので、方程式の答えは1つではないのか。つまり決定論的世界を覆すことはできないのではないかと思うかもしれない。
しかし、それにさらなるトドメを指したのが、量子力学だ。この学問によると、微小な世界では、粒子の位置は、特定の時点で1つに定まらないのである。つまり、世界を構成している粒子の位置が決まっていないのだから、将来の動きも、全く異なる可能性を複数内包していることになり、どれが正しいのか、解を導くことができないのである。
つまり、まったくもって姿が異なる将来世界がいくつも重層的に内包された状態で現在があるわけであるから、将来が1つに決まるというのは幻想に過ぎないという世界を人間は創りだしてしまったのである。
だから、キャリアデザインに話を戻すならば、前回上げたように、自分の将来は決まってしまっているのではないかという心配は、少なくともいまの世界では的外れだということなのだ。
決定論的世界はすでに覆されている1
私たちが真実だと思っている世界は、ほとんどが仮説として、人間によって構築されたものであることを述べてきた。
コペルニクス的転回のように、動かざるものと思われていた大地が回転しているという(当時にとっては)トンデモ仮説のほうが観測データに整合的であるということから、どんどんあたらしい世界像が作られていった。
そして、ニュートン力学のようなものが「当たり前」のように受け入られるような世界になると、こんな疑問がでてこないか。
いまや、何年何月何日何時何分に月食が起こることが予測できる。ロケットを月まで飛ばすことができる。つまり、この世の中は、原理的にすべて予測可能なのだ。この世の中は、将来まですべて決定されている。ただ、世の中の変数が多すぎるので、計算が複雑で難しいだけの話だ。
これは、決定論である。究極には、私の将来も今の時点で決まっているということだ。運命論といってもいいかもしれない。自分の将来は「物理学的に決定している」ので、何をやろうが、自由意志がどうだこうだといっても意味がないということだ。
実は、このような「決定論的な世界」は、すでに崩壊し、現代の私たちが住んでいる世界は、異なる世界なのである。つまり、決定論的世界は覆されたのである。
その理由は次回に。
老子で学ぶキャリアデザイン2
老子を解説している塩野氏の言葉を借りれば、キャリアデザインにおいて、「ぜひ、求めるべきもの」と「深入りしてはいけないもの」がある。
深入りしてはいけないものとは、名誉・地位・財産を求めることに熱心になりすぎること。これらは、すぐに裏切られるし、得られたとしても、逆に人生の負担になる。
名誉・地位・財産などを大切にしすぎると、それらにとらわれて生きるようになり、自分自身の目による、適切な判断ができなくなる。つまり、富や名誉の奴隷になってしまう。
逆に、ぜひ、求めるべきものとは、自然のいのちの美しさを実感すること。命をもった自分自身は大自然の一部である。別の言い方をすれば、自分自身は大自然の一部でしかない。けれども、自然の生命力というのは素晴らしいことであり、自分がその一部であることを噛み締めてゆったりと味わう機会を持つことである。
それは、自然の心で生きていくこと。そうすれば、明るく、楽しく、心豊かに生きることができる。
参考図書
老子で学ぶキャリアデザイン1
中国古典「老子」は、人間学、人生訓として理解できる。よって、キャリアデザインの教科書としてもうってつけの箇所がある。それを紹介しよう。
まずは、「賢を見ずを欲せざるなり」。
この意味は、「自分が自分の賢さ・才智・思慮・分別がきわだってすぐれていても、それを見せびらかしたり、誇示したり、いばったりしてはいけない」ということである。
人間はけっきょく、何もわかっちゃいない。なので、姿勢を低くして生きていくことが大切である。
自分を大きく見せよう、立派に見せようとする姿勢は、長続きしない。背伸びして無理すればどこかで行き詰まる。むしろ、しゃがんで、坐って、小さく見せたほうが、人生長続きする。
また、「自分のことは後にして、他人が先にいけるようにすると、かえって身の安全が守れる」と説く。
「低姿勢」はキャリアデザインでも大切である。
参考図書
世界はどのようにして作られたのか
最近のエントリーで、私たちが真実だと思っている「世界」は、ほとんどが仮説であることを述べた。
すなわち、私たちがすんでいる「世界」は、「宇宙」も含めて、人工的(人為的)に構築された概念である。人為的に構築された世界の中に私たち人間がいる。私たちは日ごろ、自由意志のもとで活動しているように思っても、人為的に作られた(機械仕掛けのような)世界で私たちは「踊らされている」といってもよい。
自由意志があるといっておきながら、ほとんどの社会人が、毎朝、同じ場所に通勤するのである。今日は面倒くさいから会社休みます。とはいかないのである。
話は変わり、人間がどのように「人為的な」世界を構築してきたのかを考えると興味深い。それはひとえに、人間がもつ、計算力、創造力の賜物である。
古代、人々は、せいぜい自分の五感で感じるものしか知覚できないから、そのときの「世界」は、いまとはだいぶん違って、非常に素朴なものだった。
まず、決して動かない「地」があって、その上に「天」がある。つまり、天地というのが世界の2つの大きな構成要素である。そして、天の上を、太陽やら星が動き回る。これが、古代の人々のまわりにあった「世界」である。
昔の人にとっては、地面は動かず、天体が動くという、そのような素朴な世界の中で暮らしているということで何ら不都合はなかった。
もう1つは、神様が世界を作ったというような神話によってつくられた世界だ。これについても、人々がそれが正しいと信じている限りにおいて、なんら不都合はなかった。その当時の人々の行動原理は、神様が正しいというかどうかだ。つまり、その当時の人々の行動は、自分たちがつくった神様によって支配されていた。
しかし、人間は、素朴な世界とか、神話の世界に飽き足らなくなった。測量し、計算することを身に着けた。計算して、自分の五感で感じることができないようなものまで、創造(想像)するようになった。
そして、今の言葉で言えば「トンデモ仮説」が生み出された。その1つが、言うまでもなく、地動説である。なんと、この地面が、くるくると回転し、さらに太陽の周りをグルグルと周っているのだというのだから正気の沙汰ではない。常識から考えたら明らかにトンデモだったわけだ。気が狂ったのかと言われても仕方がない。
しかし、天体の動きなどを計算するとどうもそちらのほうが辻褄があうことが分かり、さらに科学が進歩して、いろんな機械や建物などを作れるようになり、ニュートン力学などでロケットを飛ばせるようになり、実際に地球が丸いことも目で確かめることができるようになった。
そして、現代になると更に測量や計算技術は発達し。さらなる「トンデモ」仮説が次から次へと生み出されたのである。例えば、時空は絶対ではなく、場合によっては時空が曲がるとか、微小の世界では、ある時点での粒子の位置は確率的にしか特定できないとか、光は粒子であるとともに波であるとか、普通の頭で考えても想像できない世界である。
例えば、光の性質である「粒子」と「波」は、私達のイメージでは共存できない存在ではないか。また、粒子の位置が確率的にしか分からないとはふざけた戯言ではないか。半分の確率でそこにあって、残りの半分の確率でそこにないって何だ。
しかし、測定された事実をもっとも上手に説明する「数式」をこしらえると、その解釈が上記のようになってしまうということなのだ。数式という人間の道具をつかって世界を作った。それを言葉で解釈すると頓珍漢になる。
これは、ものすごく巨大な対象(宇宙)とか、ものすごく小さな対象(量子)において、人間が直に知覚できなくても、測量と計算、数学的操作によって、辻褄があっているかを確かめることができるということだ。辻褄さえあえば、「とりあえず」それを「真実に近い考え」として保留しておくことが可能だというわけだ。
このようにして、現在私達が、宇宙とか世界とか思っているものは、過去の人々によって創造的に構築されたイメージだといってよいのである。