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新しい本のタイトルが決まりました

「大学生のためのキャリアデザイン」に続く第二弾の本のタイトルが決まりました。

 

タイトルは、「リアルオプションキャリア術!」です。

 

現在多忙なためなかなか時間がとれませんが、時間を見つけて執筆していきたいと思います。

 

 

books.rakuten.co.jp

大衆消費社会革命

将来から歴史を眺めたとき、1990年ごろを境に、明らかに情報革命が起こり、消費社会が変化したといえる。一言でいえば、モノの世界から情報の世界へと変化し、大衆消費も、モノの消費から情報の消費に大きくシフトした。

 

モノの世界、モノの消費の特徴は何かといえば、モノを買うということが消費の中心であったわけだが、モノというのは限りがあって、選択肢が限られている代わりに、個人として見ても、買える量にも限りがあった。だから、大衆消費社会においては、各個人が限られた金銭的な予算制約の中で何を買うかが重要であったわけである。

 

しかし、現在進行している、情報の世界、情報の消費においては、まったく違った消費の特徴が出現している。モノと違って情報は簡単にコピーしたり増やしたりすることができ、かつ価格もどんどん低下し、無料情報も氾濫してくる。その結果、人々にとっての消費対象となる情報コンテンツが氾濫して、その中から何を選ばせるかが重要となっている。

 

余暇の消費を考えてみると、モノの時代であれば、音楽を楽しみたい場合には、レコードやCDというモノを買うことでしか楽しめなかった。そうなると、レコードやCDを売っている場所、品物の数も物理的に限定されており、その制約と、個人の予算制約との相談によって購買が決定されていたわけだ。CDレンタルやレンタルビデオ屋の出現によって、多少は利便性が増したが、依然としてCDやDVDなどのメディア媒体という「モノ」を介してしか楽しめなかった。

 

しかし、もちろん現在進行形の情報の世界では、例えばインターネットは電気やガスのようにすでに生活インフラになっているので、多くの人が当たり前のように使えるようになってきている。そして、先ほどの、音楽や映画、ビデオにしても、モノとしての媒体を介する必要なく直接インターネットを通じて届けることができるので、モノとしての制約がなくなってしまった。同時に、価格がどんどん下がり、最近では定額制が出現したため、場所的制約、予算制約が限りなくなくなってきてしまった。

 

例えば定額性サービスならば、消費すべき情報が限りなく広がっているため、時間さえあれば、いくらでも消費できるという世界になってしまった。極端にいえば、24時間365日、音楽やビデオを消費しまくったとしても、定額で済むわけである。

 

であるから、消費者にとっていちばん重要な問題としての情報の世界の大衆消費のポイントは、むしろ場所の制約とか予算の制約の問題ではなく、限られた時間の中で氾濫する情報コンテンツの何を消費するのかといった、時間制約の中での時間配分の選択という問題に代わってしまったのである。

 

受験勉強で大切なこと2

前回のエントリーでは、難関校の入試では、特に英語や国語では、教養としての知識が得点を左右することを書いた。

 

数学の問題は若干、英語や国語の問題とは異なるが、それでも、教養という意味で重要なエッセンスがある。それは、「考えること」の重要性であり、それは、英語や国語で必要な教養とも共通している。

 

つまり、英語や国語の問題の解答に必要な教養についても、「考えること」によって身につく部分が多いからである。前回も書いたが、教養的な知識は、「知っている」ではダメで「理解している」ことが前提となる。この「理解する」を可能にするのは「考える」という作業である。情報を単に暗記するのではなく、「なぜそうなのか」「それは何を意味するのか」「他の知識とどうつながっているのか」などを「考える」ことによってはじめて、内容を「理解する」ことができるというわけである。

 

数学の問題に立ち戻って、何が高得点を可能にするのかを説明しよう。大学入試の数学のポイントは、数多くの基本的な解法パターンや数値計算の多くを「練習」によって身につけたうえで、それらをどのように活用して入試の問題を解くかというところにある。この後半部分に、考える力の差が出てくる。

 

まず、問題を見た時に、それがどのような解法パターンで成り立っているのかの「メカニズム」を「理解」し、出題者の意図を「理解」する。当然のことながら、問題のメカニズムと出題者の意図は連動している。出題者は、受験生のどの知識、どの能力を確かめたいかを念頭において作問しているからである。

 

だから、問題を見た時に、「この問題は、この単元とこの単元が組み合わせってできている。おそらく出題者は、この単元とこの単元のこういった部分が理解できているのかを試そうとしているのだろう」ということが分かる。

 

問題のメカニズムが理解できたら、どのようにして問題を解いていくのかの「見立て」ができる。ほとんどの問題が、複数の基本的な解法パターンの組み合わせなので、どのパターンをどの順番で用いていけば正解にたどり着けるかの道筋を見立てることができるというわけである。

 

見立てができたら解法の具体的な計画を立て、下書き用紙を利用して簡単に計算してあたりを付けたうえで、あとは、計算間違いに注意をして手順に従って解いてゆけばよいのである。そうすれば、難問であっても部分点を稼ぐことはできるだろう。

 

受験勉強で大切なこと

大学入試でいわゆる難関校、特に国立の難関校の問題を少しだけ見て感じることは、いわゆる受験勉強では解けないということだ。入試問題のテクニックを真面目に勉強する、そういう人には来てほしくないというようにも読み取れる。

 

英、数、国でいうと、特に英語と国語はそれがいえる。では、合格するために必要なのは何か。それは、一言でいえば「教養」である。教科書的な知識を知っているかということではなく、文化、社会、経済、科学、哲学などについての広範な知識と理解を有しているかということである。

 

英語も国語も、語学力を見ているという点は確かにあるが、それ以上に問題を解くうえで重要なのが、先ほど言ったような教養に関する知識なのである。そのような知識があったほうが、英語日本語にかかわらず、圧倒的に長文読解が楽なのである。長文問題で出てくるトピック自体に精通していれば、趣旨はすぐに理解できるし、わからない単語などがあっても類推できる。解答時間が限られた試験なのだから、それが得点差に大きく影響するというわけだ。

 

ここで重要なのが、文化、社会、経済、科学、哲学などの教養的な分野の中身を「知っている」ことではなく、「理解している」ということだ。知っていると理解していることの違いは、知っているだけでは応用がきかないが、理解していれば、応用ができるということだ。

 

例えば、いくばくかの現代思想を「理解」していれば、国語の長文を読んだときに、「これは○○の思想が背景にあるな」ということがわかる。それがわかれば、筆者の思考様式がわかり、筆者の意図がわかる。ひいては、その意図がわかっているかを解答させようとする出題者の意図もわかるということなのである。「ニーチェは○○と言った」というような「知識」だけでは何の役にも立たないことはおわかりだろう。

 

些細な雑感ではあるが、このことから、高校時代にどのような生活をすればよいのかの何らかのヒントが得られるだろう。

 

年賀状交換で学ぶゲーム理論

年賀状の交換というのは、ある意味、社会における交換関係の特徴を理解する上で有用な教材である。

 

年賀状で思い当たることというのは、仲が良かった友達なのに、いつからか年賀状の交換が途絶えてしまうというケースがある一方で、別段良く知っているわけでもないのに、毎年年賀状を交換する仲になるケースがあるということである。

 

これは、毎年、年賀状を出す人を選択する意思決定と関係がある。すでに、毎年年賀状を交換する間柄であれば、意思決定には何の支障もきたさない。要するに、年賀状を送るという意思決定が自動的になされる。

 

問題となってくるのは、とくに親しくもないのに昨年年賀状が来たというようなケース。例えば、昨年名刺交換をした人とか。おそらく、半分義理なのだろうとは思うが、今年はこちらから出すべきなのか。おそらく出さなくてもよいのか、という思考がなされる。

 

また、年賀状交換をしていたのに、昨年相手から年賀状を受け取らなかったというようなケース。1度だったら、たまたま何らかの理由があったのだろうということで、年賀状を出すという意思決定をすると思うが、それが2年連続で起こったような場合。

 

 

さらには、昨年、住所変更等で年賀状が戻ってきてしまい、結果的に届けられなかったケース。相手からも来ていない。これは、年賀状交換が自然消滅する典型的なケースであろう。

 

ポイントとなるのは、このように、意思決定が難しいようなケースでは、必ず、相手のほうはどうするだろうかという「読み」が思考に付随するということである。これが、交換関係の本質であり、このような発想を抽象化させると、ゲーム理論のようになってくる。

 

例えば、とりわけ親しくない人に対して、今年自分が出したのに、相手が年賀状をくれなかったら、来年以降はやめておこうとか、今年年賀状を出さないのに相手が出してきて、返事をしなかったら失礼なのでやっぱり出しておこうとか。

 

とりわけ親しい間柄でもないのに、なぜか毎年年賀状交換をしているというケースは、ゲーム理論でいうところの、ナッシュ均衡なのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

存在とは何か

存在。ここでは、この世界に自分が存在しているということと、その意味について考えてみよう。
 
自分が存在しているということを自明のこともしくはデフォルトと考えてしまうと、いずれ、自分の存在が消えてしまうことを想像したときに、表現しがたい恐怖感に襲われることになる。
 
実はよく考えるとわかることだが、ほんとうは、自分はこの世界には、ほとんど存在していない。これがデフォルト。そう考えたほうがよい。
 
例えば、100年前は自分は存在していないし、100年後も存在していない。
 
つまり、この世、この世界、もしくはこの宇宙のほとんどの時間、自分は存在していないのだ。存在していないことがデフォルトなのだから、そのこと自体を恐れることはない。
 
それが、なぜか、一瞬だけ、いま、自分は存在している。なぜ、この時代なのか、なぜ、日本人としてなのか、理由はまったくわからない。しかし、いま、ここに、わたしが存在しているということは動かせない事実である。
 
このような、わたしという存在。これは、奇跡としかいえないくらい神秘的なことである。
 
では、この「存在」の本質は何か。
 
一言でいえば、「儲けもの」である。まったくの偶然と奇跡によって、宇宙の時間からみたら、ほんの一瞬のあいだだけ獲得できた「存在」。
 
しかし、当然ながら、この存在には、「賞味期限」がある。しかも、1度きりしか体験できない。けっして、二度と繰り返せない。これが真実なのだ。
 
この賞味期限は、ぼやぼやしているとあっという間に終わってしまう。賞味期限が終わってしまったら、もとの、自分が存在しないというデフォルトに戻るのみである。
 
だから、このかけがえのない「存在」の一瞬一瞬を大切にし、二度と繰り返せないこの存在の瞬間を、決して無駄にしないで、骨の髄からしゃぶりつくすことで味わうことが重要なのだ。
 
余計なことを考えている暇などない。賞味期間の期限がせまっているこの存在を、一生懸命、真剣に、味わうことだ。
 

国際化、多様化が最も進んでいる日本の職場は芸能界ではなかろうか

日本の職場でも、グローバル化ダイバーシティの重要性が指摘されて久しい。最近では、LGBTという言葉も使われるようになってきている。その点に関して、良い悪い、望ましい望ましくないは別として、国際化、多様化がもっとも進んでいる日本の職場は芸能界ではなかろうか。
 
 
芸能界は、普通の日本人、外国人、ハーフ、オカマ・お姉系、その他、LGBTとよばれる人々もたくさんいるはずだ。容姿も性格も年代もさまざまだ。
 
 
彼らは、自分の持ち味を最大眼に生かして勝負している。彼らにとっては、他の人と違うことを決してディスアドバンテージにせず、それをアドバンテージとして「武器」にしようとしている。
 
 
芸能界の世界は、日本の大企業などにありがちな男女差別的な仕事の仕方はあまりなく、国籍、性別、宗教、信条などを問わず、平等に競争がなされる実力主義社会である。おそらく、収入も成果主義が徹底しているといえよう。
 
 
彼らの仕事は、視聴者にインパクトをあたえ、喜ばせ、引き付けることである。それでメディアなどの視聴率を高め、イベントを成功させ、スポンサーの収入を増やす。よって、彼らの起用は、非常に資本主義的な市場原理に基づいてなされる。
 
 
もちろん、どの世界にもあるように、短期的にはえこひいきとか、コネとかがあるかもしれない。けれども、芸能界では、実力がなければ長期的には必然的に淘汰されるはずだ。