歴史の本質について考える

歴史とは何か。根本的なことから考えてみよう。

 

まず、歴史とは、過去の出来事に関係している。まずおおざっぱにいえば、過去の出来事というのは、「毎日、いろんなことが起こっている」ということの積み重ねにつぎない。そこに、なにか歴史をひとまとめに理解できるような客観的な大きなつながりとか法則性があるわけではない。もちろん、ミクロな視点でみるならば、直前の出来事が次の出来事と関連しているということはいえる。ただ、世界ではそれが無数に生じているだけであって、世界の流れを決定づけるような骨太な因果関係があるわけではないという意味である。

 

そして、いま現在の人々の視点から過去を振り返り、そうした無数の日々の出来事の蓄積から、注目すべき出来事を選びだして、それらをつなげ、何か骨太なストーリーを見出していく、というよりは創作していく。これは客観的なものでも、何らかの法則性に従っているわけでもなく、今の人間が、今の視点で過去の出来事を解釈し、意味づけし、ストーリー化していくわけである。

 

そして、そのようにつくりだしたストーリーは、現在に向かった方向性を有している。そして、その方向性の延長線上に、未来を位置づける。つまり、歴史というかたちで人々が創出するストーリーが、未来のあり方を方向付けるわけである。ある特定の未来にむかう期待や動機付け、予測などを、人間自体が、過去を振り返り、解釈し、ストーリーを創出することで、作り上げる。それが固定化するならば、人間は、そのストーリーに沿った行動の蓄積を通じて、いかにも「予言の自己成就」のように、歴史と一貫性のある未来が実現していくのだといえよう。

 

つまり、歴史の流れを形づくる客観的な法則性があるというような人がいれば、それは幻想であって、実際にそう見えるとするならば、それは人々が自分自身でその 流れをつくりあげ、それに沿って動いているということにすぎないわけである。

 

そこから何が言えるかというと、歴史に大きな流れがあるとしても、そのパターンは客観的に1つあるわけではなくて、可能性として無数にあるというわけである。人々が、過去を振り返って、どのような出来事に着目し、それをどうお互いに結び付け、それらのつながりにどのような意味を付与していくのかによって、出来上がるストーリーが異なってくる。例えば、これまでの歴史とその延長としての今後の展望が楽観的なものなのか、悲観的なものなのかは、意味づけする人々次第である。

 

 

歴史の本質について考える

歴史とは何か。根本的なことから考えてみよう。

 

まず、歴史とは、過去の出来事に関係している。まずおおざっぱにいえば、過去の出来事というのは、「毎日、いろんなことが起こっている」ということの積み重ねにつぎない。そこに、なにか歴史をひとまとめに理解できるような客観的な大きなつながりとか法則性があるわけではない。もちろん、ミクロな視点でみるならば、直前の出来事が次の出来事と関連しているということはいえる。ただ、世界ではそれが無数に生じているだけであって、世界の流れを決定づけるような骨太な因果関係があるわけではないという意味である。

 

そして、いま現在の人々の視点から過去を振り返り、そうした無数の日々の出来事の蓄積から、注目すべき出来事を選びだして、それらをつなげ、何か骨太なストーリーを見出していく、というよりは創作していく。これは客観的なものでも、何らかの法則性に従っているわけでもなく、今の人間が、今の視点で過去の出来事を解釈し、意味づけし、ストーリー化していくわけである。

 

そして、そのようにつくりだしたストーリーは、現在に向かった方向性を有している。そして、その方向性の延長線上に、未来を位置づける。つまり、歴史というかたちで人々が創出するストーリーが、未来のあり方を方向付けるわけである。ある特定の未来にむかう期待や動機付け、予測などを、人間自体が、過去を振り返り、解釈し、ストーリーを創出することで、作り上げる。それが固定化するならば、人間は、そのストーリーに沿った行動の蓄積を通じて、いかにも「予言の自己成就」のように、歴史と一貫性のある未来が実現していくのだといえよう。

 

 

 

 

情報革命は何をどう変えたのか

私たちの世界は、情報革命のまっただ中にいると言われている。これは、産業革命の1つであるといってもよい。

 

では、情報革命で何がどう変わったのか。一言でいえば、情報革命の前は、経済の中心は、モノを生産し、モノを消費するということだった。そして、情報革命の後は、経済の中心が、情報を生産し、情報を消費するということになるということである。

 

モノの生産と消費は、地球の自然にある資源を使うので、行き過ぎれば環境破壊に繋がる。その点、情報の生産と消費が、環境破壊につながる影響は小さい。

 

つまり、情報の生産と消費は、環境に優しいということがいえそうだ。

 

昔から、情報の生産と消費という、環境にやさしい経済活動はあった。その典型的なものが、小説だ。小説家が、小説の執筆によって情報を生産し、庶民が、小説を読むことでその情報を消費する。

 

ただし、その際には本というかたちで紙を消費するし、それを運ぶ運送コストもかかる。しかし、情報革命は、電子書籍を可能にしたので、そのうち、紙代も運送代も節約できるようになる。

 

モノの生産と消費は、モノが溢れ変えるようになるにしたがい、限界を迎える。そして地球環境破壊にもつながる。しかし、情報の生産と消費は、地球に優しい形で、経済成長を維持することに貢献することができるのである。

 

ホリエモンのビジョンが実現した。

むかし、IT業界でライブドアの社長をしていたホリエモンこと堀江貴文氏が、インターネットとテレビを融合させるというビジョンを掲げて、フジテレビの買収に動き出した。10年以上も前のことだ。

 

フジテレビ側は猛烈に抵抗し、その後ライブドア事件も起こり、ホリエモンの夢は潰えたかに見えた。

 

しかし、実は、インターネットとテレビの融合というホリエモンの夢というかビジョンは確実に引き継がれていたのだ。つまり、別の会社によって実現したのだ。

 

その名は、abemaTV。

 

サイバーエージェントという会社と、テレビ朝日が提携して、インターネット上にテレビ局を作ってしまった。

 

abemaTVは、インターネット端末をテレビにしてしまった。これは、技術的にはそんなに難しくないことだが、衝撃的な事件なのだ。なにしろ、これからは地デジは必要がなくなることを示唆しているからだ。

 

もちろん、まだ始まったばかりなので、番組コンテンツはまだ貧弱である。しかし、abemaTVが発展する先には、いわゆる有線テレビとかスカパーなどと同じ世界が地デジアンテナやテレビ端末なしで、ふつうのPC,タブレットスマホなので楽しめるようになるのだ。

 

若者はこのすごさをよくわかっているようで、abemaTVは急速に普及しているとのこと。

 

いま電通長時間労働過労自殺問題で、同社の社是社訓が問題になっているが、サイバーエージェントの社訓には、「ライブドア事件を忘れるな」というのがある。

 

 

abemaTVの設立とは直接的な関係はないだろうが、結果的にライブドアが目指していたものを実現したのだから、なにか運命的なものを感じざるをえない。

 

 

VUCA(ブーカ)時代に威力を発揮するリアルオプションキャリア術

 

VUCA(ブーカ)とは、Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)を意味する略語である。VUCAという言葉が示しているのは、これからの世界は、ますます変動性・不確実性・複雑性・曖昧性が増してくるということである。

 

一見すると、VUCAが進む世界は、私たちにとっては困難な時代になってくるように思える。しかし、私が提唱する「リアルオプションキャリア術」がもっとも威力を発揮する時代だともいえるのである。

 

なぜなら、リアルオプションとは、金融の世界における金融派生商品の1つである「オプション」という仕組みを、金融以外の世界にも応用しようとして生まれた概念であり、オプションをはじめとする金融派生商品の目的が、とりわけ金融の世界における変動性、不確実性、複雑性などに効果的に対処するために生み出されたものだからである。

 

したがって、このリアルオプションの考え方をキャリアデザインに応用した「リアルオプションキャリア術」は、まさに、VUCAに以下に対処し、キャリアを成功に導くかということを扱うものなのである。

  

 

21世紀型ビジネスの特徴と問題点3

これまで、今後克服されるべき21世紀型ビジネスの問題点を挙げてきた。

 

もう1つ、重要な問題点を挙げておく必要がある。それは、このブログでもたびたび指摘してきたことに関連している。それは、資本主義の宿命でもある、成長志向である。

 

資本主義経済のもとでは、とにかく経済成長が求められるということを過去にも指摘してきた。その結果どうなるかというと、早く古い製品を廃棄してもらって、新しい製品を買い求めてもらうことが必要だということである。

 

それによって企業が利益を増大し、経済成長が起こるわけである。しかし、当然のことながら、このような20世紀型のビジネスが、資源の無駄遣いや環境破壊を推し進めてきたのである。

 

これに反して、シェア、コラボ、サステナビリティを志向する21世紀型ビジネスは、成長を志向しない。どちらかといえば、むやみやたらに成長することを避け、いまある資源を大事にリユース、シェアしながら使っていこうという考え方である。

 

そこには、ボランティアの精神、リサイクルの精神、自然保護の精神、効率性の精神などが重視され、利益の獲得、売上の成長、規模の拡大を志向しない。ここに、これまでの資本主義の枠組みの中で21世紀型ビジネスが立ち上がってきたことによるジレンマが存在するのである。

 

つまり、21世紀型ビジネスは、一言でいうと、資本主義の枠組みでは「そんなに儲からない」ビジネスなのである。例えば、ボランティアに頼ることは、それは奉仕の精神という言葉のもとでタダ働きをしてもらっていることになるし、すでにある資源をリサイクルしていくことは、新しい製品を作って売ることによる収益機会を阻害していることになる。

 

21世紀型ビジネス自体が成長すればするほど、経済全体は低成長になる可能性があるのである。リサイクル、シェア、コラボ、効率化の推進で製品やサービスの値段は下がり、その結果、賃金も下がって可処分所得も減るというデフレスパイラルが起こる可能性がある。

 

社会全体に、それでもいいのだという発想の転換が起こらなければ、21世紀型ビジネスは社会に浸透していかないであろう。

21世紀型ビジネスの特徴と問題点2

前回のつづき。21世紀型ビジネスの問題点として、それは、まず、悪意の参加者や犯罪者が混ざってきたときに排除しにくいというリスクや、過失などによる事故や被害にかんする安全面でのリスクがあることを述べた。

 

それがなぜかというと、20世紀型のビジネスが、安全と秩序を重視し、高品質な製品やサービスを消費者に提供するために、監視とコントロールを重視したからだ。監視とコントロールを強化するからこそ、資源の無駄が生じてしまう。

 

例えば、製品やサービスを精査するために時間と労力を使う。少しでもリスクがありそうな要素があれば、製品を廃棄する。監視やコントロールができなくなりそうな資源は用いないし、きちんとした時間をきめて仕事をするので、状況に応じて対応するといった柔軟性がなくなる。

 

ということで、結局は資源の無駄使いや、遊休資産の増加などがでてきてしまうわけだ。

 

21世紀型ビジネスというのはむしろそういった20世紀型ビジネスの問題点を克服する方向で発展しているから、資源の無駄遣いを省き、極力シェア・コラボをし、時間や資源を柔軟に活用しようとする。それを可能にするのが、情報革命によって生まれたネットの世界ということだ。

 

つまり、秩序・安全の維持のための監視・コントロールと、資源の有効活用・サステナビリティを高めるための参加型・シェア・コラボといった活動とにトレードオフが存在するということなのだ。

 

それが原因で、現在発展しつつある21世紀型ビジネスの脆弱性がネックになっているのだ。シェア・コラボ・柔軟性を高めるために、管理・コントロールをある程度犠牲にせざるを得ないのが現状なのだ。管理・コントロールを行うためには権力を集中させ、社会や組織を階層化させ、ある程度クローズドなシステムを通じて中央集権的にコントロールを行う必要があるが、シェア・コラボ・柔軟性を追求するならば、社会や組織をフラットにし、権力が分散され、システムがオープンでだれもが参加できるシステムにしていく必要があるのだ。

 

これまで見てきた通り、現在の状態は、20世紀型ビジネスと21世紀型ビジネスとの間にトレードオフとかジレンマが存在することが問題であるから、今後の21世紀型ビジネスに求められるのは、このようなトレードオフやジレンマをどのように乗り越えるのか、すなわち、弁証法的にいえば、いかにして止揚し、もう一段、バージョンアップされたビジネスに進化していくのかというところがポイントなのである。