モダンとポストモダン

現代の世界は、モダン(近代)から、ポストモダンに移り変わろうとしていると言われる。どういうことだろうか。

 

モダンの時代では、新しいものがいろいろと生まれ、社会が成長し、進歩していくように感じる。日本でいったら、明治から大正、昭和、そして戦後しばらくはモダンの時代であっただろう。

 

ポストモダンの時代とは、モダンのような成長や移り変わりがだんだんと減速し、やがて限界に達し、新しいものが生まれなくなっていく時代である。その代わり、モダンの時代の産物が蓄積されてきているので、蓄積された産物をパッチワークのようにつなぎあわせて再利用を繰り返すような活動が増えてくる。これは、現在あるものを最大限に活用することで資源の浪費や破壊を防ごうとするサステナビリティの発想とも通じるものである。

 

日本の大衆音楽でいれば、演歌、歌謡曲、ロック、ニューミュージック、J-Popダンスといったように次々と新たなジャンルが生まれ、大衆音楽がどんどん進歩しているように見えたモダンの時代は終わり、ポストモダンに突入した現在では、過去のジャンルと類似したパターンの再利用を繰り返しているような感じである。したがって、数十年前のポップス音楽と現在のポップス音楽では、演歌とニューミュージックを比べるかのようなものすごい違いがあるわけではない。

 

映像にしても、過去からの蓄積が進み、かつそれらへのアクセスが容易になっているので、オンデマンドでいつの時代であるかに関わらずさまざまな映像を利用するようになっている。リアルタイムの映像となつかしの映像がパッチワークのように組み合わされて番組が作られたりするのである。

 

基本的に、先進国は、モダンの時代のような成長はとまり、経済社会がポストモダンに移行しているといえよう。それに対し、発展途上国については、まだまだ物質的にもインフラ的にも成長の余地があるので、モダンとしての時代モードであるといえよう。

 

 

 

 

コンビニと物流センターが支える日本の未来

私の住んでいるところでは、大きなメーカーの工場が撤退し、そのあとに、巨大な物流センターが建設されているケースがいくつかある。

 

また、コンビニについても新店舗がいくつか開店しているが、概して大型店化している。

 

この2つの傾向は、コンビニと物流センターが将来の日本を支えることを示唆している。とりわけ、この2つが必要なのは、都市部でなく、地方である。

 

ご存知のとおり、地方では、車でいけるところに大型のショッピングモールなどがつくられ、その反面、街にあった小さな商店ががさびれてシャッター街と化してきた。

 

しかし、高齢化がさらに進むと、高齢者が車を運転するのは危険であったり、車を運転できなくなったりする。そうなると、昔のように車でショッピングモールに出かけるとうこともできなくなる。しかし、昔あったような、歩いて行ける距離にある商店街はすでに復活不可能な状態である。

 

そのような世帯を救うのは、まずは、ネット販売と宅配である。いまや、毎日の食材でさえも、ネット通販で配送が可能である。ネット販売と宅配がこれまで以上に重要となってくるならば、物流センターも重要なわけである。

 

それから、むかしの八百屋や肉屋、魚屋、雑貨屋を合体したような小型店舗としての役割を期待されているんがコンビニなのだ。コンビニが大型化して食料品などを充実させているのは、そのような未来をにらんでのことだと推察する。高齢者が多いところでも歩いていけるところに必ずコンビニがあって、そこにいけば、昔の八百屋や雑貨屋だけでなく、銀行や郵便局のような用事も済ませられるとなれば、鬼に金棒である。

 

このように、日本の人口がまだ若かったころは、原料を輸入して若者が低賃金で工場で働き、製品を輸出することでお金を稼ぎ、それを使うかたちで生活を成り立たせてきた。これから、経済が成熟し、少子高齢化が進む日本では、海外で作ったものを安く輸入し、物流網を充実させて家まで届けることで生活を維持することがポイントとなってくるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

コンビニのイノベーション・第二幕

コンビニエンスストアが世の中に登場して以来、コンビニ店舗の数は増えつづけ、もはやコンビニが無ければ社会が成り立たないくらいの存在感を確立した。

 

コンビニ店舗は無限に増え続けるわけにはいかない。なぜならば、人口が限られているからだ。日本の人口は減少しているわけだから、無理に店舗数の拡大を続けることは明らかに人口動態と矛盾する。

 

これまで、コンビニはセブンイレブンに牽引される形で進化を続けてきた。20年前のコンビニと今のコンビニを比べてみれば、その変容ぶりに驚くことであろう。今のコンビニには、ATMがあり、プライベートブランド商品があり、カフェがある。フライドポテトやフランクフルトがあり、近所のスーパーよりも安い商品もある。

 

そして、進化し続けることを止めないコンビニは、ついにイノベーションの第二幕を迎えることになった。その内容を解説しよう。

 

発祥当時からのコンビニの顧客のイメージは、都会に住むどちらかというと夜型の若者である。都会で忙しい生活をしている若者が便利さを求めてコンビニに駆け込んだり、たむろしたりするというイメージだ。

 

しかし、今、コンビニが担おうとしているのは、都会への若者流出や少子高齢化でダメージを受け、過疎化が進んだ地方社会である。

 

むかしは、地方においても、歩いていけるようなところに商店街があった。そこには、八百屋、肉屋、魚屋、金物屋、雑貨屋、本屋などがひしめき、商店街内で必要な買い物を済ますことができた。ところが、モータリゼーションが進み、郊外のロードサイドに大型のスーパーやショッピングモールが建設されるようになり、多くの人々が車にのってイオンやヨーカドーなどに買い物に行くようになった。その結果、地方の商店街はシャッター街と化し、八百屋も肉屋も雑貨屋も廃業してしまった。

 

ところが、である。高齢化がますます進むならば、高齢者が車を運転して郊外のショッピングセンターに行くことが困難になってくる。望むらくは、昔のように歩いていける商店街の復活なのである。しかし、昔のような商店街が復活することは考えにくい。

 

そこで、コンビニの出番なのである。それも、従来型の、都会の若者が顧客というイメージのコンビニではなく、地方の中高年の人たちのためのコンビニなのである。そのようなコンビニは、まさに、昔の八百屋や肉屋、魚屋、雑貨屋が1店舗に収まったようなお店なのである。

 

実際、セブンイレブンをはじめとするコンビニが、最新の店舗を大型化し、休憩スペースや生鮮食品などのスペースを増やしているのもその理由だと思われるのである。

 

都会の若者が夜におでんとかカップ麺を買いに行くようなコンビニではなく、都会のビジネスパーソンがランチの弁当を買いに行くようなコンビニではなく、地方のおじちゃん、おばちゃんが今晩のご飯の食材をちょっと買いにいくようなコンビニなのである。

歴史の本質について考える

歴史とは何か。根本的なことから考えてみよう。

 

まず、歴史とは、過去の出来事に関係している。まずおおざっぱにいえば、過去の出来事というのは、「毎日、いろんなことが起こっている」ということの積み重ねにつぎない。そこに、なにか歴史をひとまとめに理解できるような客観的な大きなつながりとか法則性があるわけではない。もちろん、ミクロな視点でみるならば、直前の出来事が次の出来事と関連しているということはいえる。ただ、世界ではそれが無数に生じているだけであって、世界の流れを決定づけるような骨太な因果関係があるわけではないという意味である。

 

そして、いま現在の人々の視点から過去を振り返り、そうした無数の日々の出来事の蓄積から、注目すべき出来事を選びだして、それらをつなげ、何か骨太なストーリーを見出していく、というよりは創作していく。これは客観的なものでも、何らかの法則性に従っているわけでもなく、今の人間が、今の視点で過去の出来事を解釈し、意味づけし、ストーリー化していくわけである。

 

そして、そのようにつくりだしたストーリーは、現在に向かった方向性を有している。そして、その方向性の延長線上に、未来を位置づける。つまり、歴史というかたちで人々が創出するストーリーが、未来のあり方を方向付けるわけである。ある特定の未来にむかう期待や動機付け、予測などを、人間自体が、過去を振り返り、解釈し、ストーリーを創出することで、作り上げる。それが固定化するならば、人間は、そのストーリーに沿った行動の蓄積を通じて、いかにも「予言の自己成就」のように、歴史と一貫性のある未来が実現していくのだといえよう。

 

つまり、歴史の流れを形づくる客観的な法則性があるというような人がいれば、それは幻想であって、実際にそう見えるとするならば、それは人々が自分自身でその 流れをつくりあげ、それに沿って動いているということにすぎないわけである。

 

そこから何が言えるかというと、歴史に大きな流れがあるとしても、そのパターンは客観的に1つあるわけではなくて、可能性として無数にあるというわけである。人々が、過去を振り返って、どのような出来事に着目し、それをどうお互いに結び付け、それらのつながりにどのような意味を付与していくのかによって、出来上がるストーリーが異なってくる。例えば、これまでの歴史とその延長としての今後の展望が楽観的なものなのか、悲観的なものなのかは、意味づけする人々次第である。

 

ただ、ここでややこしいことが1つある。それは、出来事自体が、前後のストーリーによって規定されるということである。出来事という概念自体が、解釈的な意味づけを含んだものであるからである。

 

 

歴史の本質について考える

歴史とは何か。根本的なことから考えてみよう。

 

まず、歴史とは、過去の出来事に関係している。まずおおざっぱにいえば、過去の出来事というのは、「毎日、いろんなことが起こっている」ということの積み重ねにつぎない。そこに、なにか歴史をひとまとめに理解できるような客観的な大きなつながりとか法則性があるわけではない。もちろん、ミクロな視点でみるならば、直前の出来事が次の出来事と関連しているということはいえる。ただ、世界ではそれが無数に生じているだけであって、世界の流れを決定づけるような骨太な因果関係があるわけではないという意味である。

 

そして、いま現在の人々の視点から過去を振り返り、そうした無数の日々の出来事の蓄積から、注目すべき出来事を選びだして、それらをつなげ、何か骨太なストーリーを見出していく、というよりは創作していく。これは客観的なものでも、何らかの法則性に従っているわけでもなく、今の人間が、今の視点で過去の出来事を解釈し、意味づけし、ストーリー化していくわけである。

 

そして、そのようにつくりだしたストーリーは、現在に向かった方向性を有している。そして、その方向性の延長線上に、未来を位置づける。つまり、歴史というかたちで人々が創出するストーリーが、未来のあり方を方向付けるわけである。ある特定の未来にむかう期待や動機付け、予測などを、人間自体が、過去を振り返り、解釈し、ストーリーを創出することで、作り上げる。それが固定化するならば、人間は、そのストーリーに沿った行動の蓄積を通じて、いかにも「予言の自己成就」のように、歴史と一貫性のある未来が実現していくのだといえよう。

 

つまり、歴史の流れを形づくる客観的な法則性があるというような人がいれば、それは幻想であって、実際にそう見えるとするならば、それは人々が自分自身でその 流れをつくりあげ、それに沿って動いているということにすぎないわけである。

 

そこから何が言えるかというと、歴史に大きな流れがあるとしても、そのパターンは客観的に1つあるわけではなくて、可能性として無数にあるというわけである。人々が、過去を振り返って、どのような出来事に着目し、それをどうお互いに結び付け、それらのつながりにどのような意味を付与していくのかによって、出来上がるストーリーが異なってくる。例えば、これまでの歴史とその延長としての今後の展望が楽観的なものなのか、悲観的なものなのかは、意味づけする人々次第である。

 

 

歴史の本質について考える

歴史とは何か。根本的なことから考えてみよう。

 

まず、歴史とは、過去の出来事に関係している。まずおおざっぱにいえば、過去の出来事というのは、「毎日、いろんなことが起こっている」ということの積み重ねにつぎない。そこに、なにか歴史をひとまとめに理解できるような客観的な大きなつながりとか法則性があるわけではない。もちろん、ミクロな視点でみるならば、直前の出来事が次の出来事と関連しているということはいえる。ただ、世界ではそれが無数に生じているだけであって、世界の流れを決定づけるような骨太な因果関係があるわけではないという意味である。

 

そして、いま現在の人々の視点から過去を振り返り、そうした無数の日々の出来事の蓄積から、注目すべき出来事を選びだして、それらをつなげ、何か骨太なストーリーを見出していく、というよりは創作していく。これは客観的なものでも、何らかの法則性に従っているわけでもなく、今の人間が、今の視点で過去の出来事を解釈し、意味づけし、ストーリー化していくわけである。

 

そして、そのようにつくりだしたストーリーは、現在に向かった方向性を有している。そして、その方向性の延長線上に、未来を位置づける。つまり、歴史というかたちで人々が創出するストーリーが、未来のあり方を方向付けるわけである。ある特定の未来にむかう期待や動機付け、予測などを、人間自体が、過去を振り返り、解釈し、ストーリーを創出することで、作り上げる。それが固定化するならば、人間は、そのストーリーに沿った行動の蓄積を通じて、いかにも「予言の自己成就」のように、歴史と一貫性のある未来が実現していくのだといえよう。

 

 

 

 

情報革命は何をどう変えたのか

私たちの世界は、情報革命のまっただ中にいると言われている。これは、産業革命の1つであるといってもよい。

 

では、情報革命で何がどう変わったのか。一言でいえば、情報革命の前は、経済の中心は、モノを生産し、モノを消費するということだった。そして、情報革命の後は、経済の中心が、情報を生産し、情報を消費するということになるということである。

 

モノの生産と消費は、地球の自然にある資源を使うので、行き過ぎれば環境破壊に繋がる。その点、情報の生産と消費が、環境破壊につながる影響は小さい。

 

つまり、情報の生産と消費は、環境に優しいということがいえそうだ。

 

昔から、情報の生産と消費という、環境にやさしい経済活動はあった。その典型的なものが、小説だ。小説家が、小説の執筆によって情報を生産し、庶民が、小説を読むことでその情報を消費する。

 

ただし、その際には本というかたちで紙を消費するし、それを運ぶ運送コストもかかる。しかし、情報革命は、電子書籍を可能にしたので、そのうち、紙代も運送代も節約できるようになる。

 

モノの生産と消費は、モノが溢れ変えるようになるにしたがい、限界を迎える。そして地球環境破壊にもつながる。しかし、情報の生産と消費は、地球に優しい形で、経済成長を維持することに貢献することができるのである。