時間に縛られるということの正体

私たちの多くは、日々、忙しく暮らしている。時間に追われ、あくせく働いたりしている。

 

しかし、前回のエントリーで見たように、時間というのは「仮説」にすぎず、いま、私たちの多くが持っている時間のイメージは、それが「便利だから」という理由で人間が発明したアイデアだ。

 

周期的に動く何かを基準として、その周期性を「測る」方法を発明し、それを時間と定義し、世界中に(未開社会はわからないが)普及させたのである。

 

その結果、どう便利になったかというと、世界中の人間の行動に規律ができたということなのである。言い方を変えると、世界中の人間の行動をコントロールしやすくできたのである。

 

平日の朝の日本を見るがいい。ものすごく規律正しい周期で電車が動き、大量の人々が規則正しいかたちでオフィス街に雪崩れ込むではないか。場合によっては、この毎日の動きに、1分、1秒の誤差もないくらいだ。

 

これは何を意味しているかというと、世界が機械のごとく粛々と動くようになり、その粛々と動く世界に、人間自身が巻き込まれているということだ。人間はある意味自由を失って、その世界の動きに従わなければならない。

 

従わなければ、その人は、社会不適応ということになって、まともな仕事にもつけないし、場合に寄っては病人扱いされるということだ。

 

朝になれば自然に目がさめ、日中活動し、暗くなれば眠くなって寝るという、自然の摂理にすなおにしたがって人々が生きていた古代の生活とはまったくことなる世界なのである。