世界はどのようにして作られたのか2

私たちが世界、宇宙について、真実だと思っていることのほとんどは、人間につくりだしたものにすぎないことを話してきた。

 

物理学とかの自然科学が対象とする、宇宙とか世界の分野でさえ、そうなのだが、経済学などが対象とする「社会」にいたっては、問題はもっと深刻だといえる。

 

つまり、私たちが住んでいる「社会」は、経済学などの社会科学によって「つくられた」ものであるのみならず、私たちの生活とか人生が、その社会の1部としてコントロールされているということだからだ。

 

例えば、経済学で有名な、「神の見えざる手」について考えてみよう。

 

この考え方によれば、市場の参加者(人間とか企業)が、自分の自己利益を最大化するように、かつ合理的に行動すると、「神の見えざる手」によって、富の分配などが最適になる。つまり、みながハッピーになる、というような論理展開をする。

 

このような考え方が基礎となって経済学が発展し、それが政策などにも影響を与えているわけだが、上記の「神の見えざる手」の話をきいて、「だから何なのだ」と思わないだろうjか。

 

あれは、あくまで仮定の話じゃないか。つまり「市場の参加者(人間とか企業)が、自分の自己利益を最大化するように、かつ合理的に行動すると」というのは仮定であって真実ではない。

 

けれども、それを出発点にして経済学が組み立てられ、それによって経済社会が説明、解釈され、かつ、経済問題などの処方箋が導き出される。しかも、このような考え方が学校で教えられ、人々の間に普及していく。

 

そうなると、単なる「仮定」が、仮定ではなくなって、多くの人にとって「前提」もしくは「真実」となってしまう。

 

なにが真実かというと、「人間は自己利益を最大化するべく合理的に行動する」ということがである。そして、それが真実であり、前提であるならば、私たちは、そのように行動するのが生得的であり、当たり前であるかのように「錯覚」してしまう。

 

皆がそのように行動して、「結果的に」経済学が予測するように社会が動いているとしたら、それには何の意味があるのだろうか。

 

確かに社会は経済学が考えるように動いているのかもしれないけれども、それは単に、経済学によって人々や社会がコントロールされているに過ぎないんのではないだろうか。