科学優位の無目的世界

現在は、科学がもっとも信頼できる知のあり方としての安定的な地位が確立されている時代だといってよい。科学の信頼性は、宗教よりも、慣習よりも、何よりも上位にあるようにさえ思える。そのような時代というのは、どんな特徴を持っているのだろう。

 

それを一言でいうならば、無目的世界観ということがいえるだろう。つまり、宇宙も、世界も、社会も、無目的なのである。

 

例えば、私たちは地球が丸いと思っておりそれを疑わない。なぜ疑わないかというと、科学がそう教えているからである。そのように教える科学とは何かというと、それは、機械的な世界観である。世界は神がある目的をつくって創造したとか、なにか目的があって、そこに向かって進歩しているというような考え方を排除し、純粋に、世界はなんらかの機械的な法則性に従っているだけだと考えるのだ。

 

そのように考えるからこそ、科学は発展し、それが技術に応用され、私たちの豊かな暮らしにつながったといえるのである。

 

しかし、先ほど述べたように、それは、世界には目的などないという前提で成り立っている。その世界で生きている人間が作る社会も、科学が有意の時代では、目的がないものとして捉えられる。ただ、機械的にある原理にしたがって人間の集まりとしての社会が営まれていると考えるのである。社会における人間は、あたかも、モノの世界における原子とか量子のようなものである。原子とか分子が集まって物理的世界ができているように、人間があつまって社会ができている。どちらも、目的はなく、機械的な法則で動いている。

 

 

そのような世界、社会、時代になってしまったからこそ、「神は死んだ」というようなニーチェの言葉が深い意味を持つのである。神がいるのであれば、神の意志が人々がこの世界を理解し、生きていくうえでの指針になる。つまり、生きる意味を見出せる。しかし、神がいない、無目的の世界では、そのようなガイドがなく、自分は何のために生まれてきたのか、何を目的に生きているのかという問いに意味がなくなってしまうのである。つまり、生きる目的とか、生きる意味を見失ってしまう世界に生きているのである。

 

極論として、各個人がただ動物のように欲望を追求していけば、市場メカニズムを介して社会としてまとまりがでてくる、みたいな話になってしまう。経済学も、無目的世界観の前提に立ち、一定の行動原理でうごく個々の人間の集まりとして市場や社会をとらえようとしがちであるからである。