商品としてのキャリア・事例編

前回、「商品としてのキャリア」という記事を書いた。そして、ただの思い付きで、例として、「嵐が・・・」というようなことを書いた。

 

そうしたら、驚いたことに、その翌日に、嵐の活動停止のニュースが日本全国を駆け巡った。

 

単なる偶然とはいえ、あまりにもタイミングが良すぎる展開だ。つまり、嵐の活動停止というのは、「商品としてのキャリア」の1つのケーススタディ(事例研究)だといえるのである。

 

嵐は、明らかに少年のころからすでに、「一般人」から「商品」に転化した。日本でも最大級の資本の自己増殖の一部となり、膨大な利潤を生み出し続けてきた。そして、「商品」としての人生を、20年近くも過ごしてきたのだ。

 

商品というのは、貨幣がさらなる貨幣を生むという自己増殖の循環プロセスの一部を担うものだから、徹底的な品質管理が必要である。傷がついてはいけない。本人も、商品としての自覚を持ち、徹底した品質管理をする義務がある。その点、大手芸能プロダクションは、品質管理が徹底しており、品質管理が徹底しているからこそ、商品としての信頼性が高く、安定的に利潤を生み出せるわけである。

 

しかし、1人の人間として、商品のままで人生の大半を送るということでいいのかということは言えるわけである。

 

そして、多くの芸能人は、そんな疑問を挟むまえに、「商品」としての価値が下がり、自然と、「人」に戻っていくのである。つまり、商品でいたくても、資本の自己増殖に貢献できなくなってしまえばもはや商品ではいられないというわけだ。

 

プロスポーツ選手なんかもそうで、商品としての賞味期間は相対的に短いのである。引退後、コメンテーターなど別の商品に再転化するケースもままあるが。

 

しかし、嵐の場合は多少老朽化しても商品価値は依然として健在であった。それに対してあるメンバーは、自分が商品でありつづけることにノーを表明したわけだ。私はそれはそれで本人にとっては大事なことでよいと思うが、嵐という商品を自己増殖の手段として最大限に活用してきた資本の論理からすると、ちょっと待ったということになるのもしれない。