なぜ就活で闇市場がなくならないのか

毎年学生が就職活動をする「新卒市場」という労働市場では、「本市場」と「闇市場」からなる二重構造になっている。


本市場とは、今年でいったら8月1日から始まる入社試験などによる新卒市場である。闇市場は、それ以前に、アンダーグラウンドで企業と学生が接触しあう市場である。そして、優秀な学生ほど、闇市場での取引がなされ、実質的な就職が決まる。そうでない場合は、本市場で就職先を探す。


では、新卒市場はこのような二重構造になっているのか。それを理解する鍵となるのが、経済学における「情報の非対称性」と「レモン市場」だ。


経済学が考える「理想的な市場」とは、自由競争のもとで、不特定多数のすべての市場参加者に等しく機会が与えられ、その中からもっとも望ましい相手同士が取引をするというものである。ただし、これには非現実的な仮定がある。それは、市場参加者の、売り手も買い手も、お互いの情報を知り尽くしている(よって、自分にとっての望ましさを評価することができる)というものである。


つまり、自由市場では、お互いが、自分にとってもっとも望ましいパートナー(学生と企業)を選ぶように自由競争すれば、神の見えざる手で、全体としてもっとも効果的な学生と企業のマッチングが行われる。


しかし、情報の非対称性を仮定する経済学では、売り手も買い手も、自分に不利な情報を隠そうとするので、相手のことがよくわからない。相手のことがよくわからなければ、お互いに不信感を抱き、その市場でまともな取引ができなくなる。市場は不特定多数の人が参加するので、相手は自分をだまそうとしているかもしれない(モラル・ハザード)。よってまともに取引する気が起こらない。


レモン市場というのは、売り手も買い手も、不良品しか市場で取引しないので、市場は不良品ばかりになってしまう様子をいう。ほんとうに良いものは、例えばお互いに知ったもん同士で、闇市場で取引しようとするのだ。悪銭は良貨を駆逐するという、グレシャムの法則も同じようなものだ。お金に不純物を加えた「悪銭」を市場に放出すると、人々は良貨はしまっておき、悪銭のみを渡すので、市場が悪銭だらけになってしまう。


このような情報の非対称性とレモン市場の経済学のほうが、理想的だが非現実的な市場を想定した経済学よりもずっと現実的である。そして、就職活動が行われる新卒市場も同じようなことがいえるのである。


不特定多数の人々が取引をする市場では、情報の非対称性を利用した「だましあい」が行われるので、まともな人はそこで取引したくない。よって、知ったもの同士(例えば、有名企業と有名大学)のインフォーマルなつながりなどを利用して、闇取引をしてしまう。優良品は、闇取引で決まってしまう。本市場に漂流しているのは粗悪品ばかりということになってしまうのである。

就活で勝った人、負けた人、疲れた人

今年の就職活動は、昨年よりも後ろ倒しとなり、盛夏の暑い時期に本番を迎えている。

すでに就活にケリがついた人、まだまだこれからの人、やる気を失った人、さまざまだと思うが、就活が終わった人も、いちど著書を読んでみてほしい。

 

大学生のためのキャリアデザイン

「卒業後の就職を控え、長い職業人生を歩んでいこうとする大学生必見の書。目先の就職活動をはじめ、成功する仕事術や長期的なキャリア戦略など、小手先のテクニックではない、キャリアの達人たちによる本質的なアドバイスが満載。「大学受験の延長で就職活動をするのはやめよう」「優れたキャリア戦略とは奇なるもの」「キラッと光る原石になれ」「仕事のできる人はここが違う!」など、どこから読んでもためになる本。」

 

まず、就活は勝ち負けとか、成功、不成功で判断するものではない。たしかに短期的に見たら、それはあたかも高校受験、大学受験のようなものかもしれない。

 

しかし、目先を10年後、20年後に据えたら、まずは働き口を確保し、そこからいかにしてステップアップしていくか。実りのある人生を歩んでいくかに焦点をあてるべきだ。

 

若い時の苦労は買ってでもせよという格言どおりに行動してみよう。

 

テクニック的なことを言うならば、グローバルなレベルで「資本主義極まれり」という時代である。そのような世界では弱肉強食的な側面が多分にある。その趨勢に文句ばかりいっていても始まらない。まずは、そこで生き残っていくすべを身につけなければならない。

 

ひとまず、就活で「勝ち組」に入ったと思っていてもうかうかしていられないし、逆にそれが仇になる可能性もある。

 

ちきりんさんも、そのことに警鐘を鳴らしている。

 

2015-08-02 最初に働く場所の選び方Add Stariryokaizencommittee72peach2015

先日、大学院の学生さんから、“最初に働き始める場所”についての相談を受けました。

「どこに就職すべきか」ではなく、「ファーストキャリアをどういう考え方で選ぶべきか」についての質問です。

この質問に応えて話した内容を、まとめておきます。

d.hatena.ne.jp

 

一流大学卒、大企業入社という事実のみでは、長期的にみて何の役にもたたないということは、すなわち、「キャリアの下剋上が起こる時代」「キャリアの戦国時代到来」ということなのである。

 

戦国時代到来ということは、強いものが勝つ時代。あるいは強者と弱者がひっくり返ることが頻繁に起こる時代。

 

戦国時代は、野蛮な時代であることは否めない。そんな中、とりあえず、武器を持っておく必要がある。自分はどんな武器をもって戦うのか、あるいは自分を守るのか。そのことを考える必要があるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

作り出される欲望

よく、新商品開発をするときに言われることとして、「マーケティングリサーチなんかやったって、売れる商品はつくれない。リサーチをやっても、消費者のニーズはわからない。なぜなら、消費者は、自分自身のニーズに気づいていないことが多いから、というのがある」

 

 

具体的な商品を見せてみて、はじめて消費者が「これが欲しい」ということがわかるということで、ある意味、的を得た視点である。しかし、これは別の言い方をすれば、新商品は、消費者の欲望を「作り出す」ことでヒットする、ということでもある。

 

 

消費者は自分のニーズに気づいていないというよりも、企業などによって、欲望を作り出され、刺激された結果として、その商品にニーズを感じるのである。

 

 

例えば、私が学生のときは、携帯電話も、ネットもなかった。けれども、そもそもそのようなものがなかったのだから、それがないからといって欠乏感もなかったし、不満があったわけではない。それらがなくても、楽しく暮らしていた。

 

 

つまり、人々は、資本主義社会というシステムの中、次々と、欲望を「開拓」され、「作り出され」、「刺激される」ことで、消費を繰り返してきたわけであるが、だからといって、この蓄積のおかげで、人々の幸福感が倍々ゲームで増加してきたわけではないということだ。

 

 

私の学生時代と、いまの学生とで、幸福感に雲泥の差があるわけではない。今の学生のほうが数倍幸福だとは思わない。私の時代の学生は、いまの学生と同じくらい幸福であったと思う。

 

人間が作り出した制度や社会に、私たちの欲望や行動が操作されている、コントロールされている、支配されているということだ。

時間に縛られるということの正体2

以前、人間は、とくに現代に入ってからは、自分たちが編み出した「時間」というコンセプトによって、自らの行動をコントロールされているということを書いた。

 

繰り返すと、時間というのは、この世界に実在するものではなく、あくまで人間が考えだしたコンセプトだということだ。

 

その証拠に、人間は、時間を知覚するための感覚器官を持っていない。つまり、時間は五感(知覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)で直接感じとることができない。

 

だから、時間は、空間の知識を用いてしか表現できないのである。例えば、時間が「長かったり」「短かったり」するというのは、距離という空間知識を使って、時間というものを作り上げている証左である。

 

過去、未来、現在というのも、通常は、直線のような空間的知識を使って表現する。過去や未来「遠く感じる」のも、空間知識をつかって時間という「架空の概念」をとらえようとしているにすぎない。

 

でも、これらはあくまで現代という時代が作り上げた「アイデア」にすぎないということは言うまでもない。

世界はどのようにして作られたのか2

私たちが世界、宇宙について、真実だと思っていることのほとんどは、人間につくりだしたものにすぎないことを話してきた。

 

物理学とかの自然科学が対象とする、宇宙とか世界の分野でさえ、そうなのだが、経済学などが対象とする「社会」にいたっては、問題はもっと深刻だといえる。

 

つまり、私たちが住んでいる「社会」は、経済学などの社会科学によって「つくられた」ものであるのみならず、私たちの生活とか人生が、その社会の1部としてコントロールされているということだからだ。

 

例えば、経済学で有名な、「神の見えざる手」について考えてみよう。

 

この考え方によれば、市場の参加者(人間とか企業)が、自分の自己利益を最大化するように、かつ合理的に行動すると、「神の見えざる手」によって、富の分配などが最適になる。つまり、みながハッピーになる、というような論理展開をする。

 

このような考え方が基礎となって経済学が発展し、それが政策などにも影響を与えているわけだが、上記の「神の見えざる手」の話をきいて、「だから何なのだ」と思わないだろうjか。

 

あれは、あくまで仮定の話じゃないか。つまり「市場の参加者(人間とか企業)が、自分の自己利益を最大化するように、かつ合理的に行動すると」というのは仮定であって真実ではない。

 

けれども、それを出発点にして経済学が組み立てられ、それによって経済社会が説明、解釈され、かつ、経済問題などの処方箋が導き出される。しかも、このような考え方が学校で教えられ、人々の間に普及していく。

 

そうなると、単なる「仮定」が、仮定ではなくなって、多くの人にとって「前提」もしくは「真実」となってしまう。

 

なにが真実かというと、「人間は自己利益を最大化するべく合理的に行動する」ということがである。そして、それが真実であり、前提であるならば、私たちは、そのように行動するのが生得的であり、当たり前であるかのように「錯覚」してしまう。

 

皆がそのように行動して、「結果的に」経済学が予測するように社会が動いているとしたら、それには何の意味があるのだろうか。

 

確かに社会は経済学が考えるように動いているのかもしれないけれども、それは単に、経済学によって人々や社会がコントロールされているに過ぎないんのではないだろうか。

 

決定論的世界はすでに覆されている2

前回のエントリーで、自然科学の発達で人間が構築してきた決定論的世界はすでに覆されていることを指摘した。人間のさらなる想像力によって、決定論的世界は破壊され、新しい世界が構築されている。

 

つまり、原理的に、将来は予測不能なのである。もちろん、前回例に出したような天体の動きは、「しばらくは」予測可能だが、長期的には予測不能である。

 

では、この世界の将来は「原理的に」予測不能である理由を説明しよう。

 

その鍵となるのは、非線形数学と量子力学である。

 

まず、ニュートン的な力学だと、基本となるのは線形数学で、ある時点の物体の位置と運動状態がわかれば、方程式を解くことによって特定の時間における物体の位置が特定できる。これが決定論的世界の根拠である。

 

しかし、非線形数学だと、微分方程式を解いても、物体の初期値がほんのちょっと異なるだけで、全く違うことが起こってしまうことが「数学的に」わかってきた。

 

そんなことをいったって、物体の位置は原理的には正確に把握できるはずなので、方程式の答えは1つではないのか。つまり決定論的世界を覆すことはできないのではないかと思うかもしれない。

 

しかし、それにさらなるトドメを指したのが、量子力学だ。この学問によると、微小な世界では、粒子の位置は、特定の時点で1つに定まらないのである。つまり、世界を構成している粒子の位置が決まっていないのだから、将来の動きも、全く異なる可能性を複数内包していることになり、どれが正しいのか、解を導くことができないのである。

 

つまり、まったくもって姿が異なる将来世界がいくつも重層的に内包された状態で現在があるわけであるから、将来が1つに決まるというのは幻想に過ぎないという世界を人間は創りだしてしまったのである。

 

だから、キャリアデザインに話を戻すならば、前回上げたように、自分の将来は決まってしまっているのではないかという心配は、少なくともいまの世界では的外れだということなのだ。

 

 

 

 

 

決定論的世界はすでに覆されている1

私たちが真実だと思っている世界は、ほとんどが仮説として、人間によって構築されたものであることを述べてきた。

 

コペルニクス的転回のように、動かざるものと思われていた大地が回転しているという(当時にとっては)トンデモ仮説のほうが観測データに整合的であるということから、どんどんあたらしい世界像が作られていった。

 

そして、ニュートン力学のようなものが「当たり前」のように受け入られるような世界になると、こんな疑問がでてこないか。

 

いまや、何年何月何日何時何分に月食が起こることが予測できる。ロケットを月まで飛ばすことができる。つまり、この世の中は、原理的にすべて予測可能なのだ。この世の中は、将来まですべて決定されている。ただ、世の中の変数が多すぎるので、計算が複雑で難しいだけの話だ。

 

これは、決定論である。究極には、私の将来も今の時点で決まっているということだ。運命論といってもいいかもしれない。自分の将来は「物理学的に決定している」ので、何をやろうが、自由意志がどうだこうだといっても意味がないということだ。

 

実は、このような「決定論的な世界」は、すでに崩壊し、現代の私たちが住んでいる世界は、異なる世界なのである。つまり、決定論的世界は覆されたのである。

 

その理由は次回に。