世界はどのようにして作られたのか

最近のエントリーで、私たちが真実だと思っている「世界」は、ほとんどが仮説であることを述べた。

 

すなわち、私たちがすんでいる「世界」は、「宇宙」も含めて、人工的(人為的)に構築された概念である。人為的に構築された世界の中に私たち人間がいる。私たちは日ごろ、自由意志のもとで活動しているように思っても、人為的に作られた(機械仕掛けのような)世界で私たちは「踊らされている」といってもよい。

 

自由意志があるといっておきながら、ほとんどの社会人が、毎朝、同じ場所に通勤するのである。今日は面倒くさいから会社休みます。とはいかないのである。

 

話は変わり、人間がどのように「人為的な」世界を構築してきたのかを考えると興味深い。それはひとえに、人間がもつ、計算力、創造力の賜物である。

 

古代、人々は、せいぜい自分の五感で感じるものしか知覚できないから、そのときの「世界」は、いまとはだいぶん違って、非常に素朴なものだった。

 

まず、決して動かない「地」があって、その上に「天」がある。つまり、天地というのが世界の2つの大きな構成要素である。そして、天の上を、太陽やら星が動き回る。これが、古代の人々のまわりにあった「世界」である。

 

昔の人にとっては、地面は動かず、天体が動くという、そのような素朴な世界の中で暮らしているということで何ら不都合はなかった。

 

もう1つは、神様が世界を作ったというような神話によってつくられた世界だ。これについても、人々がそれが正しいと信じている限りにおいて、なんら不都合はなかった。その当時の人々の行動原理は、神様が正しいというかどうかだ。つまり、その当時の人々の行動は、自分たちがつくった神様によって支配されていた。

 

しかし、人間は、素朴な世界とか、神話の世界に飽き足らなくなった。測量し、計算することを身に着けた。計算して、自分の五感で感じることができないようなものまで、創造(想像)するようになった。

 

そして、今の言葉で言えば「トンデモ仮説」が生み出された。その1つが、言うまでもなく、地動説である。なんと、この地面が、くるくると回転し、さらに太陽の周りをグルグルと周っているのだというのだから正気の沙汰ではない。常識から考えたら明らかにトンデモだったわけだ。気が狂ったのかと言われても仕方がない。

 

しかし、天体の動きなどを計算するとどうもそちらのほうが辻褄があうことが分かり、さらに科学が進歩して、いろんな機械や建物などを作れるようになり、ニュートン力学などでロケットを飛ばせるようになり、実際に地球が丸いことも目で確かめることができるようになった。

 

そして、現代になると更に測量や計算技術は発達し。さらなる「トンデモ」仮説が次から次へと生み出されたのである。例えば、時空は絶対ではなく、場合によっては時空が曲がるとか、微小の世界では、ある時点での粒子の位置は確率的にしか特定できないとか、光は粒子であるとともに波であるとか、普通の頭で考えても想像できない世界である。

 

例えば、光の性質である「粒子」と「波」は、私達のイメージでは共存できない存在ではないか。また、粒子の位置が確率的にしか分からないとはふざけた戯言ではないか。半分の確率でそこにあって、残りの半分の確率でそこにないって何だ。

 

 しかし、測定された事実をもっとも上手に説明する「数式」をこしらえると、その解釈が上記のようになってしまうということなのだ。数式という人間の道具をつかって世界を作った。それを言葉で解釈すると頓珍漢になる。

 

これは、ものすごく巨大な対象(宇宙)とか、ものすごく小さな対象(量子)において、人間が直に知覚できなくても、測量と計算、数学的操作によって、辻褄があっているかを確かめることができるということだ。辻褄さえあえば、「とりあえず」それを「真実に近い考え」として保留しておくことが可能だというわけだ。

 

このようにして、現在私達が、宇宙とか世界とか思っているものは、過去の人々によって創造的に構築されたイメージだといってよいのである。