時間に縛られるということの正体

私たちの多くは、日々、忙しく暮らしている。時間に追われ、あくせく働いたりしている。

 

しかし、前回のエントリーで見たように、時間というのは「仮説」にすぎず、いま、私たちの多くが持っている時間のイメージは、それが「便利だから」という理由で人間が発明したアイデアだ。

 

周期的に動く何かを基準として、その周期性を「測る」方法を発明し、それを時間と定義し、世界中に(未開社会はわからないが)普及させたのである。

 

その結果、どう便利になったかというと、世界中の人間の行動に規律ができたということなのである。言い方を変えると、世界中の人間の行動をコントロールしやすくできたのである。

 

平日の朝の日本を見るがいい。ものすごく規律正しい周期で電車が動き、大量の人々が規則正しいかたちでオフィス街に雪崩れ込むではないか。場合によっては、この毎日の動きに、1分、1秒の誤差もないくらいだ。

 

これは何を意味しているかというと、世界が機械のごとく粛々と動くようになり、その粛々と動く世界に、人間自身が巻き込まれているということだ。人間はある意味自由を失って、その世界の動きに従わなければならない。

 

従わなければ、その人は、社会不適応ということになって、まともな仕事にもつけないし、場合に寄っては病人扱いされるということだ。

 

朝になれば自然に目がさめ、日中活動し、暗くなれば眠くなって寝るという、自然の摂理にすなおにしたがって人々が生きていた古代の生活とはまったくことなる世界なのである。

正しいと思っていることのほとんどは仮説にすぎない

私たちは、宇宙、世界、社会の中に生きている。

 

そして、私たちは、宇宙とはこんなもの、世界とはこんなもの、社会とはこんなもの、という知識を持っているし、今の時代、それについて知りたければ調べてみるといくらでも情報がある。

 

つまり、調べれば真実はわかると思っているだろう。しかし、それは間違っている。真実だと思われていることのほんとんどは、仮説にすぎない。

 

これが、キャリアや人生にどう関わっているかというと、私たちが、仕事をしていくうえで、生きていく上で、前提としているいろんなことが、実は間違っているかもしれないという可能性を考えるべきだということだ。

 

宇宙や世界を構成するもっとも基本的な概念である、「時間」を例に挙げてみよう。

 

私たちは、時間とは、過去があり、過去から現在へ、そして未来へ流れていくと思っているし、それが当たり前(=真実)だと思っている。しかし、これは、人間が考えた仮説にすぎない。

 

そもそも、客観的な意味での時間なんて存在しないのではないか。もし、私たちがもっている時間の考え方が正しいとするならば、宇宙には始まりがあり、終わりがあるということになる。これは理解しがたい論理的矛盾ではないだろうか。

 

そんなことを想定したら、宇宙の定義をはじめ、あらゆる前提が崩壊する。宇宙は、すべてのものを含んでいると考えるのに、宇宙に始まりと終わりがあれば、宇宙以外に何かが存在することになってしまう。

 

その「宇宙以外の何か」も含めて、それも宇宙だと再定義してしまうと、今度は、宇宙に始まりと終わりがあること自体が成り立たなくなる。

 

なぜそんな論理矛盾が起こるのか。それは自明で、宇宙にしても、時間にしても、人間が考えだした「仮説」にすぎないから。真実ではないからである。

 

 

 

 

 

攻めと守り

キャリアにしても人生にしても、そして資産運用にしても、攻めと守りのバランスが重要である。

 

しかし、一般的には、攻めよりも守りのほうが難しいし、攻めよりも守りのほうが苦手な人が多いと思う。

 

資産運用に例えると、最近の日本の株価はアベノミクス効果で上昇基調にあった。上昇基調にあるとき場合は、攻めに出ればよい。つまり、どんどん日本株を買っていけばよかった。

 

どんどん日本株を買っていくということは、安全資産である現金を、リスク資産である株式に変えることである。だが、リスクはあるといっても、上昇基調なので、あえてリスクを取る、つまり攻めるのである。

 

しかし、上昇はいつかはとまり、下降に転じる。昼は夜になり、夏は冬になる。極まれば転ずるのが世の常である。

 

つまり、上昇基調にある日本株も、いつかは下降トレンドとなる。そのときに必要なのが「守り」である。つまり、株を売って現金に変えることによって、資産価格の目減りを早めに防ぐのが守りの姿勢である。

 

もちろん、どこが下降トレンドの始まりかは定かではない。そこが難しく、実際には、そこで判断を誤り、下降トレンドにつかまってしまう場合が多いと思われる。

 

下降トレンドは比較的足が早いことが多く、気がついたらかなり価格が下がってしまって損切りするのも躊躇する。もしかしたら値を戻してくれるのではないかと淡い期待で売るのを延期し、さらに価格が下がる。これを繰り返し、とうとう売れないまま資産価値を大幅に毀損し、「塩漬け」になってしまう。

 

これが、「攻めは得意で守りは苦手」ということの資産運用での例である。私達は、攻めだけでなく、守りにも強くならなくてはならない。

 

人生の目的とはなにか3

前回のエントリーで、自分の命を賭けてでも追い求めたいものがあるという考えと、そんなものはなく、命、生きること、以上に大切なものはないという考えを紹介した。

 

どちらが正解かはわからない。だが、もし、前者を信じるとすると、その「命をかけてでも追い求めたいもの」が見つかったのならば、それが「生きる目的」「生きる意味」につながるから、それでよいだろう。

 

けれども、もし、そのようなものが見つからない場合は、「人生の意味」「生きる目的」が見つからないということになり、苦悩を抱えることになるだろう。

 

一方、後者の、命以上のものはない、という立場を信じるならば、そもそも、人生の目的とか、生きる意味などないということになるから、いくぶんかは気が楽になるのではないだろうか。

 

ただ生きるため、ただ命をつなぐために日々活動しているだけであっても、なんら悪いことではないということになるからである。

 

 

人生の目的とはなにか2

仮に、自分の命を賭けてでも追い求めたいものがあるとしよう。あるいは、それを得るためなら自分の命を投げ打ってもよいと思えるものである。

 

もし、それがあるのならば、それが「生きる目的」「人生の目標」になるだろう。ただし、重要なのは、この場合、人生とか、命とか、生きることというのは、その目的、目標を実現するための「手段」であるということだ。

 

しかし、そんなものはないという考え方もある。つまり、命を賭けるくらいに大切なものなどはない。命こそが一番大切なのだ、ということである。

 

何よりも大切なのは、命である。つまり、生きることだということだ。

 

この場合は、人生、命、生きることは、「手段」ではなく、「目的」となる。繰り返すが、生きること以上に大切なこと。それを得るために命を捨てるようなものなど、ないということだ。

 

どちらに共感するだろうか。

 

命より大切なものはない。生きることこそ最高かつ最大の目的だ。ということになると、「人生の目的」すなわち、それを実現するために生きるという「対象」は「無い」ということになるのである。

人生の目的とはなにか

就職活動はそう簡単にいくものではない。行きたかった会社に拒絶されたり、あまりに多くの企業を訪問して方向感がなくなったり。

 

適性診断とか自己分析をやってみる。そうすると、いったい、自分がこれから何をしたいのかがよくわからなくなってきたりする。そんな中、ふと「生きる目的って何だろう」と自分の人生に疑問をもってしまったり、就職活動に疲れて、人生の目標を見失ってしまうということも起こるだろう。

 

就職活動は、人生の中でもとても大きな変化の節目にあるので、そのような根本的な疑問が生じるのも無理はないのである。

 

じゃあ、そんな問いに答えがあるのかといえば、正解があるわけではないのだが、ヒントとなる考え方はあるし、過去の人々が同じような疑問をもち、それに格闘してきたのである。

 

ここで、1つの考え方を紹介しよう。ただし、これが人生の目標を見失ってしまった人に希望を与えるかというと、逆かもしれない。

 

続きは次のエントリーで。

 

キャリアアップのための入試現代文のススメ

自分のキャリアを成功に導くには、職務知識だけでは不十分である。

 

一言でいえば、幅広い教養を身に着けることが、遠回りに見えて実は近道だろう。そして、教養を身に着けるうえでの王道が、読書である。

 

しかし、ビジネス書であればよく読むといった人でも、教養を身に着けるための読書なんとどうすればよいのか途方に暮れるかもしれない。

 

そこでおすすめしたいのが、大学の入試の現代文で採用された文章が含まれた書籍や、その著者の書いた本を読むことである。特に、有名大学の入試であれば、質の高い学生を獲得するためによく練られた問題であることが推測できる。

 

入試現代文に選ばれる文章は、短い中にも、問題文を作るに値する程度のリッチな内容を含み、また適度に難しい。適度に難しいといっても、悪文ではなく、逆によく推敲され、表現が工夫された名文であることが多い。

 

また、テーマも、国語のエキスパートである作問者の豊富な読書経験を踏まえて選択されたものであろうから、テーマも多岐にわたるし、なにより興味深い内容の本が多い。

 

よって、大学入試現代文を、教養を身に着けるための読書案内ととらえて、興味の赴くままに読んでみるのもよいと思う。