年賀状交換で学ぶゲーム理論

年賀状の交換というのは、ある意味、社会における交換関係の特徴を理解する上で有用な教材である。

 

年賀状で思い当たることというのは、仲が良かった友達なのに、いつからか年賀状の交換が途絶えてしまうというケースがある一方で、別段良く知っているわけでもないのに、毎年年賀状を交換する仲になるケースがあるということである。

 

これは、毎年、年賀状を出す人を選択する意思決定と関係がある。すでに、毎年年賀状を交換する間柄であれば、意思決定には何の支障もきたさない。要するに、年賀状を送るという意思決定が自動的になされる。

 

問題となってくるのは、とくに親しくもないのに昨年年賀状が来たというようなケース。例えば、昨年名刺交換をした人とか。おそらく、半分義理なのだろうとは思うが、今年はこちらから出すべきなのか。おそらく出さなくてもよいのか、という思考がなされる。

 

また、年賀状交換をしていたのに、昨年相手から年賀状を受け取らなかったというようなケース。1度だったら、たまたま何らかの理由があったのだろうということで、年賀状を出すという意思決定をすると思うが、それが2年連続で起こったような場合。

 

 

さらには、昨年、住所変更等で年賀状が戻ってきてしまい、結果的に届けられなかったケース。相手からも来ていない。これは、年賀状交換が自然消滅する典型的なケースであろう。

 

ポイントとなるのは、このように、意思決定が難しいようなケースでは、必ず、相手のほうはどうするだろうかという「読み」が思考に付随するということである。これが、交換関係の本質であり、このような発想を抽象化させると、ゲーム理論のようになってくる。

 

例えば、とりわけ親しくない人に対して、今年自分が出したのに、相手が年賀状をくれなかったら、来年以降はやめておこうとか、今年年賀状を出さないのに相手が出してきて、返事をしなかったら失礼なのでやっぱり出しておこうとか。

 

とりわけ親しい間柄でもないのに、なぜか毎年年賀状交換をしているというケースは、ゲーム理論でいうところの、ナッシュ均衡なのであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

存在とは何か

存在。ここでは、この世界に自分が存在しているということと、その意味について考えてみよう。
 
自分が存在しているということを自明のこともしくはデフォルトと考えてしまうと、いずれ、自分の存在が消えてしまうことを想像したときに、表現しがたい恐怖感に襲われることになる。
 
実はよく考えるとわかることだが、ほんとうは、自分はこの世界には、ほとんど存在していない。これがデフォルト。そう考えたほうがよい。
 
例えば、100年前は自分は存在していないし、100年後も存在していない。
 
つまり、この世、この世界、もしくはこの宇宙のほとんどの時間、自分は存在していないのだ。存在していないことがデフォルトなのだから、そのこと自体を恐れることはない。
 
それが、なぜか、一瞬だけ、いま、自分は存在している。なぜ、この時代なのか、なぜ、日本人としてなのか、理由はまったくわからない。しかし、いま、ここに、わたしが存在しているということは動かせない事実である。
 
このような、わたしという存在。これは、奇跡としかいえないくらい神秘的なことである。
 
では、この「存在」の本質は何か。
 
一言でいえば、「儲けもの」である。まったくの偶然と奇跡によって、宇宙の時間からみたら、ほんの一瞬のあいだだけ獲得できた「存在」。
 
しかし、当然ながら、この存在には、「賞味期限」がある。しかも、1度きりしか体験できない。けっして、二度と繰り返せない。これが真実なのだ。
 
この賞味期限は、ぼやぼやしているとあっという間に終わってしまう。賞味期限が終わってしまったら、もとの、自分が存在しないというデフォルトに戻るのみである。
 
だから、このかけがえのない「存在」の一瞬一瞬を大切にし、二度と繰り返せないこの存在の瞬間を、決して無駄にしないで、骨の髄からしゃぶりつくすことで味わうことが重要なのだ。
 
余計なことを考えている暇などない。賞味期間の期限がせまっているこの存在を、一生懸命、真剣に、味わうことだ。
 

国際化、多様化が最も進んでいる日本の職場は芸能界ではなかろうか

日本の職場でも、グローバル化ダイバーシティの重要性が指摘されて久しい。最近では、LGBTという言葉も使われるようになってきている。その点に関して、良い悪い、望ましい望ましくないは別として、国際化、多様化がもっとも進んでいる日本の職場は芸能界ではなかろうか。
 
 
芸能界は、普通の日本人、外国人、ハーフ、オカマ・お姉系、その他、LGBTとよばれる人々もたくさんいるはずだ。容姿も性格も年代もさまざまだ。
 
 
彼らは、自分の持ち味を最大眼に生かして勝負している。彼らにとっては、他の人と違うことを決してディスアドバンテージにせず、それをアドバンテージとして「武器」にしようとしている。
 
 
芸能界の世界は、日本の大企業などにありがちな男女差別的な仕事の仕方はあまりなく、国籍、性別、宗教、信条などを問わず、平等に競争がなされる実力主義社会である。おそらく、収入も成果主義が徹底しているといえよう。
 
 
彼らの仕事は、視聴者にインパクトをあたえ、喜ばせ、引き付けることである。それでメディアなどの視聴率を高め、イベントを成功させ、スポンサーの収入を増やす。よって、彼らの起用は、非常に資本主義的な市場原理に基づいてなされる。
 
 
もちろん、どの世界にもあるように、短期的にはえこひいきとか、コネとかがあるかもしれない。けれども、芸能界では、実力がなければ長期的には必然的に淘汰されるはずだ。

セブンイレブンのイノベーション力

雑感だが、コンビニはいろいろあれど、イノベーション力という面では、セブンイレブンが突出していると感じる。

 

セブンイレブン以外のコンビニから、画期的なイノベーションが生み出されたという事例をあまり知らない。たいていは、セブンイレブンイノベーションを起こし、他のコンビニがそれに追随するという構図でコンビニ業界が発展してきていると思う。

 

そもそも、コンビニエンスストアという業態を確立したのも、セブンイレブンが最初である。

 

当時のコンビニエンスストアのイメージは、文房具とかインスタント食品とか、夜間に困ったときにでも空いていてすぐに買える店、ついでに雑誌が置いてある店というものだった。いってみれば、文房具屋と酒屋がくっついて、かつ深夜営業が加わった=便利な店。というイメージだ。あとは、それに加えて宅配便を出せる店といった感じだろうか。

 

そこから、まず、おにぎりや弁当を主力商品に仕立ててきたのもセブンイレブンだ。これは大きなイノベーションだ。店舗数を増やしながら、「ほかほか弁当」のような業態に真っ向から勝負を挑んだわけだ。

 

弁当を主力商品にするということは、ほかほか弁当に勝るとも劣らない質を確保しないといけないことだから、そう簡単ではない。

 

セブンイレブンに、ローソンやファミリーマートなどが追随し、コンビニは全国に拡大した。あちこちにコンビニが出現し、国内ではすでに成熟期に入ったかに思えたのだが、ここからのセブンイレブンの進化ぶりには目を見張るものがある。

 

あれだけ限られた店舗スペースで、これ以上、どんな新たな商品を置けばよいのかと問い詰めたくなるような状況で、次から次へと新機軸を打ち出していく。そのたびに、他業態に勝負を挑んで、お客さんを奪っていく。

 

例えば、コンビニATMだ。これは、銀行の店舗やATMとった他業種に真っ向から勝負をいどんだイノベーションだ。そしていまや、私などは銀行の店舗に足を運ぶことは1年のうち1度あるかないかくらいだし、銀行のATMでさえほとんど使わない。出金はコンビニですませている。

 

ドトールマクドナルドなど、安くてそこそこのコーヒーを出す飲食チェーンに真っ向から勝負を挑んだセブンカフェも恐るべきイノベーションだ。これによって、私などは、以前は、自販機で缶コーヒーを買うことさえほとんどなかったのに、コンビニでコーヒーを買う頻度が確実に高まった。

 

そして、ミスタードーナツに真っ向から勝負を挑んだドーナツ販売。その影響かどうかは知らないが、私の住んでいるところに近いミスタードーナツ2店舗が撤退してしまった。

 

これら以外にも、おでんやらからあげやらアイスクリームやら、セブンイレブンが仕掛けたイノベーションは枚挙にいとまがない。

 

ローソンやファミリーマート、その他のコンビニも、業績はそこそこ良いだろうが、これはセブンイレブンが生み出したイノベーションからの恩恵をあやかっているにすぎないだろう。つまり、セブンイレブンイノベーションのフォロワーとして、セブンの生み出したサービスと同じものか、それを改良したものを投入しているにすぎないと思われる。弁当しかり、ATMしかり、カフェ・ドーナツしかりである。

 

一流になりたい、成功したいという人へ

仕事をするからには、とりわけ優秀な人であるほど、あるいは自分が優秀であると自負している人ほど、一流になりたい、成功したい、という願望が出てくるものだろう。

 

しかし、なぜ、そう思うのか。その根源的な理由は何か、考える必要がある。

 

成功したい、一流になりたい、というのは、虚栄心から来ているのではないか。その場合、一流になった、成功したときに満足するのは自分だけだ。つまり、自己満足のために頑張っているということだ。

 

そのような動機に駆られて仕事をしているならば、かならず、自分よりも優れた人、成功している人に対して、嫉妬や恨みが生じることになるだろう。虚栄心が大いに傷つくからだ。

 

しかし、そんなことよりも、もっと大事なことがあるのではないだろうか。それは、自分の仕事を通じて、どれだけの人をハッピーにさせられるかではないだろうか。

 

そう考えれば、一流になりたい、成功したい、という願望は、二の次になるのではないだろうか。虚栄心に駆り立てられて仕事をしているわけではないのならば、必ずしも一流になれなくても傷つくことはない。そんなことよりも先に願うべきことがあるということだ。

 

差がつく仕事術

緊急性は低いが、重要な仕事。しかも難易度の高い仕事。

 

これがいちばん難しい。緊急性が低いということは、すぐにやらなくても何か大きな問題が起こるわけではないし、やらなくてもいい。よって、並みの人であればやり過ごし、先延ばしをしてしまう。

 

しかし、長期的にみてキャリアで決定的に差がつくのが、この手の仕事なのだ。

 

難易度が高いので、先が見えない。いつ成功するのか、わからない。

 

このような仕事で重要な思想が「時間をつくって取り組めば、その分は必ず一歩前進する」ということだ。

 

なので、目標よりも、工程よりも、何よりも大切なのが、必ずその仕事に取り組むという時間を確保し、決めた時間は粛々とその仕事に取り組むということである。

 

これがなかなか難しいことは分かる。けれども、それが長期的なキャリアにおいて大きな差を生み出すのだということを忘れないことだ。

 

 

ヴィジョンを持つ

自分自身のキャリアを含め、何事においても、ヴィジョン(ビジョン)を持つことの大切さを確認しておきたい。

 

ヴィジョンの力というのは、いまだ実現されていない「未来」を見る力のことである。招来の姿を、できるだけポジティブかつワクワクするかたちで、ヴィヴィッドに(生き生きと)思い描くのである。

 

ポジティブで生き生きとした「ヴィジョン」は、2つの意味を含んでいる。

 

1つ目は、「将来こうなるだろう」という「予測」の姿である。現在にはすでに未来に起こりうる出来事の兆しがある。それを見つけることができるかどうかがかぎとなる。

 

もう1つは、「自分がこのように将来を作っていく」という「意志」の反映である。未来は受身で待つだけのものではない。自分でいろんなものに働きかけ、作り上げていくものでもある。未来を切り開いていくということである。未来を切り開くためには、目指すべき姿がないといけない。ヴィジョンとして見えない未来が実現することはない。必ず、このような未来を実現するのだという意志があるのである。

 

だから、ヴィジョンが重要なのだ。ヴィジョンは、現在の兆しにもとづいた将来の予測と、将来を創る意志の両方が含まれている。だから、デタラメでもない。独りよがりでもない。ヴィジョンの実現に向けた行動も伴うことになるのである。