21世紀型ビジネスの特徴と問題点3

これまで、今後克服されるべき21世紀型ビジネスの問題点を挙げてきた。

 

もう1つ、重要な問題点を挙げておく必要がある。それは、このブログでもたびたび指摘してきたことに関連している。それは、資本主義の宿命でもある、成長志向である。

 

資本主義経済のもとでは、とにかく経済成長が求められるということを過去にも指摘してきた。その結果どうなるかというと、早く古い製品を廃棄してもらって、新しい製品を買い求めてもらうことが必要だということである。

 

それによって企業が利益を増大し、経済成長が起こるわけである。しかし、当然のことながら、このような20世紀型のビジネスが、資源の無駄遣いや環境破壊を推し進めてきたのである。

 

これに反して、シェア、コラボ、サステナビリティを志向する21世紀型ビジネスは、成長を志向しない。どちらかといえば、むやみやたらに成長することを避け、いまある資源を大事にリユース、シェアしながら使っていこうという考え方である。

 

そこには、ボランティアの精神、リサイクルの精神、自然保護の精神、効率性の精神などが重視され、利益の獲得、売上の成長、規模の拡大を志向しない。ここに、これまでの資本主義の枠組みの中で21世紀型ビジネスが立ち上がってきたことによるジレンマが存在するのである。

 

つまり、21世紀型ビジネスは、一言でいうと、資本主義の枠組みでは「そんなに儲からない」ビジネスなのである。例えば、ボランティアに頼ることは、それは奉仕の精神という言葉のもとでタダ働きをしてもらっていることになるし、すでにある資源をリサイクルしていくことは、新しい製品を作って売ることによる収益機会を阻害していることになる。

 

21世紀型ビジネス自体が成長すればするほど、経済全体は低成長になる可能性があるのである。リサイクル、シェア、コラボ、効率化の推進で製品やサービスの値段は下がり、その結果、賃金も下がって可処分所得も減るというデフレスパイラルが起こる可能性がある。

 

社会全体に、それでもいいのだという発想の転換が起こらなければ、21世紀型ビジネスは社会に浸透していかないであろう。

21世紀型ビジネスの特徴と問題点2

前回のつづき。21世紀型ビジネスの問題点として、それは、まず、悪意の参加者や犯罪者が混ざってきたときに排除しにくいというリスクや、過失などによる事故や被害にかんする安全面でのリスクがあることを述べた。

 

それがなぜかというと、20世紀型のビジネスが、安全と秩序を重視し、高品質な製品やサービスを消費者に提供するために、監視とコントロールを重視したからだ。監視とコントロールを強化するからこそ、資源の無駄が生じてしまう。

 

例えば、製品やサービスを精査するために時間と労力を使う。少しでもリスクがありそうな要素があれば、製品を廃棄する。監視やコントロールができなくなりそうな資源は用いないし、きちんとした時間をきめて仕事をするので、状況に応じて対応するといった柔軟性がなくなる。

 

ということで、結局は資源の無駄使いや、遊休資産の増加などがでてきてしまうわけだ。

 

21世紀型ビジネスというのはむしろそういった20世紀型ビジネスの問題点を克服する方向で発展しているから、資源の無駄遣いを省き、極力シェア・コラボをし、時間や資源を柔軟に活用しようとする。それを可能にするのが、情報革命によって生まれたネットの世界ということだ。

 

つまり、秩序・安全の維持のための監視・コントロールと、資源の有効活用・サステナビリティを高めるための参加型・シェア・コラボといった活動とにトレードオフが存在するということなのだ。

 

それが原因で、現在発展しつつある21世紀型ビジネスの脆弱性がネックになっているのだ。シェア・コラボ・柔軟性を高めるために、管理・コントロールをある程度犠牲にせざるを得ないのが現状なのだ。管理・コントロールを行うためには権力を集中させ、社会や組織を階層化させ、ある程度クローズドなシステムを通じて中央集権的にコントロールを行う必要があるが、シェア・コラボ・柔軟性を追求するならば、社会や組織をフラットにし、権力が分散され、システムがオープンでだれもが参加できるシステムにしていく必要があるのだ。

 

これまで見てきた通り、現在の状態は、20世紀型ビジネスと21世紀型ビジネスとの間にトレードオフとかジレンマが存在することが問題であるから、今後の21世紀型ビジネスに求められるのは、このようなトレードオフやジレンマをどのように乗り越えるのか、すなわち、弁証法的にいえば、いかにして止揚し、もう一段、バージョンアップされたビジネスに進化していくのかというところがポイントなのである。

 

21世紀型ビジネスの特徴と問題点

20世紀にはなかった、21世紀型のビジネスがだんだんと姿を現してきた。

 

そういったビジネスの例は、uber, aurbnbなどの、シェア型ビジネス、クラウドファンディング、クラウドソーシングなどの、不特定多数参加型のビジネス、WilipediaとかLinuxなどの、オープンソース型ビジネス。

 

共通しているのは、情報革命が起こったからこそ出現したという点だ。ネットが発達していなかったらあり得ない.

 

しかし、これらのビジネスには多くの課題がある。

 

それは、まず、悪意の参加者や犯罪者が混ざってきたときに排除しにくいというリスク。

 

それから、過失などによる事故や被害にかんする安全面でのリスク。

 

つまり、20世紀のビジネスならば、国家が権力を駆使して監視したり規制をはったりすることによって防げた安全性について、21世紀ビジネスでは、ユーザーや参加者の良心を信用するというかたちでしか担保できないというところにある。

 

ガバナンスとコンプライアンスの問題なのである。

 

この折り合いをどうつけていくのかが重要である.

新しい本のタイトルが決まりました

「大学生のためのキャリアデザイン」に続く第二弾の本のタイトルが決まりました。

 

タイトルは、「リアルオプションキャリア術!」です。

 

現在多忙なためなかなか時間がとれませんが、時間を見つけて執筆していきたいと思います。

 

 

books.rakuten.co.jp

大衆消費社会革命

将来から歴史を眺めたとき、1990年ごろを境に、明らかに情報革命が起こり、消費社会が変化したといえる。一言でいえば、モノの世界から情報の世界へと変化し、大衆消費も、モノの消費から情報の消費に大きくシフトした。

 

モノの世界、モノの消費の特徴は何かといえば、モノを買うということが消費の中心であったわけだが、モノというのは限りがあって、選択肢が限られている代わりに、個人として見ても、買える量にも限りがあった。だから、大衆消費社会においては、各個人が限られた金銭的な予算制約の中で何を買うかが重要であったわけである。

 

しかし、現在進行している、情報の世界、情報の消費においては、まったく違った消費の特徴が出現している。モノと違って情報は簡単にコピーしたり増やしたりすることができ、かつ価格もどんどん低下し、無料情報も氾濫してくる。その結果、人々にとっての消費対象となる情報コンテンツが氾濫して、その中から何を選ばせるかが重要となっている。

 

余暇の消費を考えてみると、モノの時代であれば、音楽を楽しみたい場合には、レコードやCDというモノを買うことでしか楽しめなかった。そうなると、レコードやCDを売っている場所、品物の数も物理的に限定されており、その制約と、個人の予算制約との相談によって購買が決定されていたわけだ。CDレンタルやレンタルビデオ屋の出現によって、多少は利便性が増したが、依然としてCDやDVDなどのメディア媒体という「モノ」を介してしか楽しめなかった。

 

しかし、もちろん現在進行形の情報の世界では、例えばインターネットは電気やガスのようにすでに生活インフラになっているので、多くの人が当たり前のように使えるようになってきている。そして、先ほどの、音楽や映画、ビデオにしても、モノとしての媒体を介する必要なく直接インターネットを通じて届けることができるので、モノとしての制約がなくなってしまった。同時に、価格がどんどん下がり、最近では定額制が出現したため、場所的制約、予算制約が限りなくなくなってきてしまった。

 

例えば定額性サービスならば、消費すべき情報が限りなく広がっているため、時間さえあれば、いくらでも消費できるという世界になってしまった。極端にいえば、24時間365日、音楽やビデオを消費しまくったとしても、定額で済むわけである。

 

であるから、消費者にとっていちばん重要な問題としての情報の世界の大衆消費のポイントは、むしろ場所の制約とか予算の制約の問題ではなく、限られた時間の中で氾濫する情報コンテンツの何を消費するのかといった、時間制約の中での時間配分の選択という問題に代わってしまったのである。

 

受験勉強で大切なこと2

前回のエントリーでは、難関校の入試では、特に英語や国語では、教養としての知識が得点を左右することを書いた。

 

数学の問題は若干、英語や国語の問題とは異なるが、それでも、教養という意味で重要なエッセンスがある。それは、「考えること」の重要性であり、それは、英語や国語で必要な教養とも共通している。

 

つまり、英語や国語の問題の解答に必要な教養についても、「考えること」によって身につく部分が多いからである。前回も書いたが、教養的な知識は、「知っている」ではダメで「理解している」ことが前提となる。この「理解する」を可能にするのは「考える」という作業である。情報を単に暗記するのではなく、「なぜそうなのか」「それは何を意味するのか」「他の知識とどうつながっているのか」などを「考える」ことによってはじめて、内容を「理解する」ことができるというわけである。

 

数学の問題に立ち戻って、何が高得点を可能にするのかを説明しよう。大学入試の数学のポイントは、数多くの基本的な解法パターンや数値計算の多くを「練習」によって身につけたうえで、それらをどのように活用して入試の問題を解くかというところにある。この後半部分に、考える力の差が出てくる。

 

まず、問題を見た時に、それがどのような解法パターンで成り立っているのかの「メカニズム」を「理解」し、出題者の意図を「理解」する。当然のことながら、問題のメカニズムと出題者の意図は連動している。出題者は、受験生のどの知識、どの能力を確かめたいかを念頭において作問しているからである。

 

だから、問題を見た時に、「この問題は、この単元とこの単元が組み合わせってできている。おそらく出題者は、この単元とこの単元のこういった部分が理解できているのかを試そうとしているのだろう」ということが分かる。

 

問題のメカニズムが理解できたら、どのようにして問題を解いていくのかの「見立て」ができる。ほとんどの問題が、複数の基本的な解法パターンの組み合わせなので、どのパターンをどの順番で用いていけば正解にたどり着けるかの道筋を見立てることができるというわけである。

 

見立てができたら解法の具体的な計画を立て、下書き用紙を利用して簡単に計算してあたりを付けたうえで、あとは、計算間違いに注意をして手順に従って解いてゆけばよいのである。そうすれば、難問であっても部分点を稼ぐことはできるだろう。

 

受験勉強で大切なこと

大学入試でいわゆる難関校、特に国立の難関校の問題を少しだけ見て感じることは、いわゆる受験勉強では解けないということだ。入試問題のテクニックを真面目に勉強する、そういう人には来てほしくないというようにも読み取れる。

 

英、数、国でいうと、特に英語と国語はそれがいえる。では、合格するために必要なのは何か。それは、一言でいえば「教養」である。教科書的な知識を知っているかということではなく、文化、社会、経済、科学、哲学などについての広範な知識と理解を有しているかということである。

 

英語も国語も、語学力を見ているという点は確かにあるが、それ以上に問題を解くうえで重要なのが、先ほど言ったような教養に関する知識なのである。そのような知識があったほうが、英語日本語にかかわらず、圧倒的に長文読解が楽なのである。長文問題で出てくるトピック自体に精通していれば、趣旨はすぐに理解できるし、わからない単語などがあっても類推できる。解答時間が限られた試験なのだから、それが得点差に大きく影響するというわけだ。

 

ここで重要なのが、文化、社会、経済、科学、哲学などの教養的な分野の中身を「知っている」ことではなく、「理解している」ということだ。知っていると理解していることの違いは、知っているだけでは応用がきかないが、理解していれば、応用ができるということだ。

 

例えば、いくばくかの現代思想を「理解」していれば、国語の長文を読んだときに、「これは○○の思想が背景にあるな」ということがわかる。それがわかれば、筆者の思考様式がわかり、筆者の意図がわかる。ひいては、その意図がわかっているかを解答させようとする出題者の意図もわかるということなのである。「ニーチェは○○と言った」というような「知識」だけでは何の役にも立たないことはおわかりだろう。

 

些細な雑感ではあるが、このことから、高校時代にどのような生活をすればよいのかの何らかのヒントが得られるだろう。