芸能人不倫問題

芸能人不倫問題が日本列島を激震させている。事の発端は、女優と結婚した男優が他の女優と不倫をしていたというもので、今もなお、当事者に対するバッシングや、他の有名人が持論を述べてはまたそれが炎上するという事案が後と絶たず、異常ともいえる事態に収拾の目途が立たない。

 

これは、現代社会の特徴を色濃く反映していると考えられる。

 

そもそも、昔の時代、芸能人というのは、一般人とは遠く離れた存在であった。一般の日本人にとってはあこがれの芸能人ではあるが、その姿を見ることができるのは、ブラウン管のテレビ番組か、レコードジャケット、雑誌のグラビア、ブロマイドぐらいしかなかった。

 

芸能人は、一般人にとってはまったくの非日常的な存在であり、それらの人々が一般人とはかけ離れた生活をしていようが、それはむしろ当たり前のことととらえられていたであろう。よって、芸能人の不倫問題というのは、たしかに、一般人にとってはゴシップ的な興味関心の対象とはなっていたが、現在のように日本全国の国民が一丸となって糾弾するというような現象ではなかった。

 

一般人にとって芸能人は、生身の人間というよりは、小説やフィクションの登場人物のような存在だった。小説の中に悪徳の登場人物がいたとしても、悪いやつだなあとは思うだろうが、本気で糾弾しようとは思わない。そもそも、テレビ局などに電話するか、新聞や雑誌に投書することくらいしか自分の意見を表明する手段がない。

 

誤解を恐れずにいうならば、昔の時代の芸能人は特殊な別世界の存在で、一般市民に必要な常識や行動規範をかならずしも当てはめる必要がないような人々と考えられていたといえるのであろう。

 

しかし時代は変わった。一番大きいのは、ネット社会が到来して、芸能人と一般人の垣根がどんどんと取り払われてきたことである。一般人であっても、ユーチューブやSNS,ブログなどを通じて、匿名であるなしにかかわらず、芸能人並みの情報発信をすることも可能となった。不平、不満があれば簡単に発信することが可能になった。

 

そして、ネット社会は監視社会ともなり、芸能人であれ、街を歩けばすぐに特定され、場合によってはネットで広く拡散されることさえも起こっている。また、ネットで検索すればいくらでも本人の情報や写真、映像などにアクセスできるようになった。 そういう意味で、芸能人は別世界に住んでいる人間ではなく、いつでもアクセス可能な存在となった。「会いに行けるアイドル」をキャッチフレーズに売り出されたアイドルグループが、そのアクセスの容易さゆえにファンとのトラブルや犯罪に巻き込まれるというケースも出てくるようになった。

 

つまり、現代社会においては、芸能人は、昔と比べれば一般人から見てかぎりなく身近に感じる存在になりつつあるのである。別の言い方をすれば、一般人が就く様々な職業の1つにすぎない存在であると考えられるようになったということだ。

 

一般人にとって、本質的には自分たちとなんら変わらない存在。しかし、その容姿の良さなどから、たまたま芸能人という職業に就いた存在。しかも、その職業がゆえに露出度が高い存在。であるからむしろ、一般人の模範となり、見本となるべき存在、正しい見識と節度ある行動が求められる存在になったということなのだ。

 

ゆえに、一般人に求められる常識や社会的規範に従うのは当たり前のことであるのに加え、一般人に比べて露出度がたかい職業についているがゆえに、人としての社会的規範を逸脱した行動は許されるべきではないという認識が社会全体に共有されるようになったのである。そこには、嫉妬心というものも含まれているように思われる。自分と同じ人間でありながら、生まれつきの容姿に恵まれているなどの理由で、自分たちよりも恵まれた環境にいることそのものが、すでに無意識的には怒りの対象となっている。そのような人物が不倫をすると、その怒りの導火線に火がつき、怒りが爆発するということである。

 

ここで重要なのは、現代社会において、一般人は、芸能人であっても基本的には自分たちと同じであると考えるようになったという点である。自分たちと同じだと思っているからこそ、嫉妬心も生まれるし、悪いことをした場合に許せない、懲らしめるべきだと思うのである。昔のように、非日常的かつ別世界の人間だとは思っていない。芸能人なのだから、自分たちとはそもそも違う人種なのだから、少々やんちゃであっても、破天荒であってもいいじゃないか、というような論調を表明すれば即座に日本全国から袋たたきに合う時代になったということなのである。

 

時代の流れ

2020年になり、新たな年を迎えた機会に、この世界経済の時代の大きな流れについて解説しようと思う。

 

西洋を起点とするならば、それは、産業革命以降、工業化が進み、そしてアメリカにおいて情報革命が起こって脱工業化とIT/AIの時代になったということである。

 

東洋を起点とするならば、世界をリードしてきた中国が産業革命以降の工業化時代につまずいて眠れる獅子と化し、その後、工業化を通じて立ち上がり、IT/AI時代に一気にアメリカと肩を並べ、追いつき追い越そうとしている時代だと考えられる。

 

そして、日本は、工業化の時代に地政学的な幸運から一時的に躍進をとげた国として後世の世界史で語られることであろう。

 

工業化という面では、日本は太平洋戦争後、見事に成功した。その結果、アメリカの工業が衰退し、逆に、それがきっかけとなって情報革命が起こった。産業構造を工業から情報に転換させ、GAFAを筆頭にIT/AIで世界をリードするに至った。

 

日本はこれからも工業社会を維持し、自動車や電子部品などの工業で勝負をしようとする一方、中国はいちはやくIT/AIの産業構造に舵を切り、GAFAに対抗するBAT(バイドゥ、アリババ、テンセント)といったIT企業を筆頭に、経済発展を続けている。

 

アメリカと中国がIT/AI先進国として世界のデジタル・トランスフォーメーションを推進し、世界経済を牽引していくことは間違いないであろう。

 

紅白歌合戦でメドレー曲が多い意味

近年の紅白歌合戦を見ると、実績のある歌手による代表曲のメドレーが目立つようになってきた。これは、今という時代の特徴を反映している。

 

新しいものを作っては消費することで成長しようとする時代が終焉を迎えつつあるということだ。言い換えるならば、昔のようには成長しなくなってしまったということである。

 

もう一つは、これまでの成長の軌跡として蓄積してきたものが、デジタル社会の到来でアクセスしやすくなった時代であるということである。

 

であるから、もうこれ以上、次から次へと何かをつくって消費するような資源を費消してしまうやり方をせず、昔のものをうまくリサイクル、リユースしてやっていこうとうい時代になったということである。

 

なので、昔のものをうまく掘り出して、少しアレンジして再利用するという方法が普及しつつあるのだ。紅白歌合戦のような歌番組のみならず、いろいろなところでそれが起こっているということだ。

 

音楽に関していえば、街中で30年も昔のロックミュージックやポップスが流れていても違和感なく街に溶け込んでいくことがわかる。つまり、デジタル化で時代は大きく変わったというけれど、それ以外のところではそれほど変わっていないから、今の人でも30年前の曲を難なく受容できるというわけだ。

 

デジタル化の恩恵は、過去のものを簡単に取り出すことができることだ。インターネットで過去の情報をすぐに検索して参照できる。ユーチューブで過去の映像を簡単に視聴できたりする。だから、今の時代、完全に何か新しいものを生み出すのではなく、簡単に利用可能な過去のものをうまく縫い合わせて(パッチワークして)、それでもって新しい価値を提供するということが当たり前の世の中になっているのである。

 

著書のご案内

大学生のためのキャリアデザイン

卒業後の就職を控え、長い職業人生を歩んでいこうとする大学生必見の書。目先の就職活動をはじめ、成功する仕事術や長期的なキャリア戦略など、小手先のテクニックではない、キャリアの達人たちによる本質的なアドバイスが満載。「大学受験の延長で就職活動をするのはやめよう」「優れたキャリア戦略とは奇なるもの」「キラッと光る原石になれ」「仕事のできる人はここが違う!」など、どこから読んでもためになる本。

 


 

旧いキャリアモデルを完璧に打破しよう

いまや、ほとんどの人が、そんなものは時代遅れと思っているのにも関わらず、いまだにこの日本を支配し、人々の深層心理にしみ込んで色あせないキャリアモデルがある。

 

それは、「しっかりと勉強して良い大学に入り、そして安定した大企業の社員になって幸せな人生を送る」というものだ。ほとんどの人はこの言葉をみて、そんなものは古いと一刀両断するだろうが、ところがどっこい、実際の若者の行動などを見ているとそうではない。とくに、親の世代がこの考えに縛られてしまっていて、子供の世代もいやおうなく影響を受けているのではないだろうか。

 

「しっかりと勉強して良い大学に入る」までは良いし、今も生きている。しかし、その後がいけない。では、これからの日本に必要な、もっとも「格好良い」「イケてる」キャリアモデルはなにか。

 

それは、「しっかりと勉強して良い大学に入り、大学でさらにしっかりと勉強をして、その後は自分で新しい事業を起こしたり、新しい事業を起こした若い会社に入って(あるいはベンチャーキャピタルなどの外部から)その会社を大きく伸ばしていく」というものだ。

 

もちろん、昔から、似たようなキャリアモデルとして「青年実業家」というモデルがある。しかし、これはどちらかというと一般人には特別な人種にように捉えられ、あまりポジティブなイメージがない。なんとなく胡散臭い、どこかのお坊ちゃん、単なる成金、などのネガティブイメージが伴いがちである。

 

そうではなく、一般人のなかでも能力が高い人が目指すべき、もっとも格好よいキャリアモデルとして、事業を創っていく仕事、イノベーションを起こす仕事に携わり、世の中で活躍する、というキャリアモデルがないといけないのだ。優秀な大学を出たもっとも能力の高い人々が、出来上がったルーチン業務で自らのポテンシャルを浪費する大企業に入ってはいけないのである。

 

もっとも優秀な人たちが、大学や大学院を卒業後、次々と新しい事業を立ち上げ、あるいはその流れに参加して、日本から世界に向けて新しいビジネスが沸き起こっていく。それによって、日本の経済も活性化する。もっともエキサイティングな仕事、もっともエキサイティングなキャリア。幸福な人生。残念ながらそのような能力や実力がない人は、「仕方なく」大企業に入ってルーチン業務に甘んじる。

 

別に、大企業に入って働くことが悪いことであるとは言っていない。もっとも優秀な人が大企業に入るのは、日本全体にとってみればイノベーションに必要な人的資源の浪費だと言っているだけである。

 

大企業を批判しているわけでもない。そもそも、大企業というのは、できあがった業務を通じて多くの人たちに製品やサービスを安定的に供給することが一番大切なので、平凡でも従順にルーチン業務をこなせる人が大量に必要であって、逆に、尖った人とかあまりにもクリエイティブな人とかがいては、和が乱れるので困るのだ。

 

平凡な人しか入社せず、平凡な仕事しかできない大企業が勢いを失って衰退し、やがては消え去っていくことは問題ではない。たんなる自然法則と考えればよい。その代りに、優秀な人々が新たな事業を次々と起こし、それらの会社がどんどん成長して、やがて次世代の大企業になっていく。ただし、大企業になってしまったら、優秀な人材からそっぽを向かれ、平凡な人しか採用できず、やがて衰退していくことは避けられない。

 

なにはともあれ、新しい事業を起こしたり、新しい製品を世に出したり、イノベーションを起こすのは、優秀な人でないといけないのだ。結果的にそのような人になれないとしても、子供のころから、そういう人々に憧れて、そういう人々になりたいという夢を持ち、そういう人々になれるよう一所懸命勉強することが、将来の日本の経済の発展につながるのだ。

 

 

 

 

 

 

商品としてのキャリア・事例編

前回、「商品としてのキャリア」という記事を書いた。そして、ただの思い付きで、例として、「嵐が・・・」というようなことを書いた。

 

そうしたら、驚いたことに、その翌日に、嵐の活動停止のニュースが日本全国を駆け巡った。

 

単なる偶然とはいえ、あまりにもタイミングが良すぎる展開だ。つまり、嵐の活動停止というのは、「商品としてのキャリア」の1つのケーススタディ(事例研究)だといえるのである。

 

嵐は、明らかに少年のころからすでに、「一般人」から「商品」に転化した。日本でも最大級の資本の自己増殖の一部となり、膨大な利潤を生み出し続けてきた。そして、「商品」としての人生を、20年近くも過ごしてきたのだ。

 

商品というのは、貨幣がさらなる貨幣を生むという自己増殖の循環プロセスの一部を担うものだから、徹底的な品質管理が必要である。傷がついてはいけない。本人も、商品としての自覚を持ち、徹底した品質管理をする義務がある。その点、大手芸能プロダクションは、品質管理が徹底しており、品質管理が徹底しているからこそ、商品としての信頼性が高く、安定的に利潤を生み出せるわけである。

 

しかし、1人の人間として、商品のままで人生の大半を送るということでいいのかということは言えるわけである。

 

そして、多くの芸能人は、そんな疑問を挟むまえに、「商品」としての価値が下がり、自然と、「人」に戻っていくのである。つまり、商品でいたくても、資本の自己増殖に貢献できなくなってしまえばもはや商品ではいられないというわけだ。

 

プロスポーツ選手なんかもそうで、商品としての賞味期間は相対的に短いのである。引退後、コメンテーターなど別の商品に再転化するケースもままあるが。

 

しかし、嵐の場合は多少老朽化しても商品価値は依然として健在であった。それに対してあるメンバーは、自分が商品でありつづけることにノーを表明したわけだ。私はそれはそれで本人にとっては大事なことでよいと思うが、嵐という商品を自己増殖の手段として最大限に活用してきた資本の論理からすると、ちょっと待ったということになるのもしれない。

 

商品としてのキャリア

キャリアデザインの1つの考え方が、自分自身が商品となるということだ。

 

よくある傾向として、それまでは一般的な「人」であった存在が、あるとき、なんらかのきっかけで、その人の存在やら言説やら著作やらが、他者にとっての使用価値の高い「商品」と転化し、自己増殖をつづける資本の運動にうまく取り込まれることによって大きく飛躍するというものだ。

 

「人」から「商品」へと転化するというところがポイントだ。商品に転化した瞬間、それは商品資本となり、貨幣ー商品ー貨幣を通じて増殖する循環運動の1部となるのである。

 

もちろん、その商品が、生身の肉体1つでしかないのなら、稼働率的に限界があるが、いまの世の中、いくらでもコピーして再生産できる。昔からあるのは著書だし、いまでいえばユーチューバーなどは、何万回も再生可能である。

 

貨幣資本から見れば、その商品に貨幣を投じて貨幣を商品に転化し、それを価格を上乗せして売却することで貨幣を増やすという運動が可能になるので、商品としての価値が高まれば高まるほど、そのような資本が押し寄せてきて、大きな循環運動の一部として取り込まれる。

 

いったん取り込まれたら、その商品が飽きられるまで半ば自動的に、あるいは商品としての数多くの自分の分身たちが一人歩きするかたちで、この資本主義の社会を泳ぎ回ることになるのである。

 

自分を商品化することで、収入も増え、知名度も高まるといったキャリア上のメリットもあるが、デメリットも認識はしておくべきであろう。例えば、自分の存在が商品と転化した場合、その商品に対する他者からの好き嫌い、とりわけ批判や苦情にも直面せざるをえない。ある商品が万人から絶賛されるということはありえない。

 

たんなる「人」としての存在の場合は、他者が自分に関心を持つことはないのでよいが、商品となったらそうはいかない。「あたし嵐の●●は好きじゃない」みたいな会話を、そこらへんの一般人が平気で街中のカフェとかでかわすわけである。

 

あと、いったん資本の自己増殖運動に取り込まれたら、自分ではその動きをコントロールできなくなる可能性もあるということだ。先ほど述べたように、自分の著作とか、言説とか、芸能人とかであれば顔写真やフォトなどの分身が独り歩きしてこの世の中にどんどんと拡がっていくわけである。

 

一発屋と呼ばれるタレントのように、一時期は自分がコントロールできないままに膨大のお金が懐に流れ込み、金遣いが荒くなり、その後、急に飽きられたり不祥事に巻き込まれたりして身銭がなくなるというケースも考えられるわけである。